2016年12月12日月曜日

ブランドの存在価値、約束は守る

2002年12月12日、この投稿を書いているちょうど14年前になる。その5ヶ月前にキリンビール社内でやっとのことで決裁をもらい会社を設立したボクら、株式会社ビアスタイル21の事業開始当初の唯一の商品、樽詰ビールのガージェリー・スタウトが取扱いの飲食店で初めてサーヴされた。(ビアスタイル21とキリンビールとの資本関係は2007年に解消)
そのお店は、代官山のシンポジオンというフレンチレストランだった。日本人オーナーシェフとして初めてミシュラン1つ星を獲得した平松宏之さんが経営するお店での取り扱い決定に、とても勇気づけられた覚えがある。

なんと言ってもスタウトビールだ。日本ではスタウトと言えば、ギネスと、アサヒとキリンが出している小瓶のスタウトがビール好きになんとか知られているくらいで、普通ではビールって言えば、スーパードライかラガーかっていう中で、「GARGERY」なんて何て読むのかもわからないようなブランド名と共に販売する10リッター樽だけの濃厚な黒ビールである。樽詰ビールだからディスペンサーの設置も必要で、開栓したら10リッターを数日以内に売り切ってもらわなければならない。しかもそれを、ビールをバンバン売っているようなビアパブや居酒屋ではなく、ワインやカクテルをメインにしているような、お洒落なハイエンドレストランやオーセンティックバーに的を絞って案内していた訳で、それはそれはハードルが高かった。

ただ、唯一の救いは、最初は「黒ビール??」っていうネガティブな反応をしていた人たちが、リュトングラスを見ると「おっ」と惹きつけられ、さらに試飲すると、「ビールサーバー、置けるかなぁ」なんて、途端に前向きになるという、圧倒的な商品の魅力。前向きに検討してもらった上で、前出のハードルが立ちふさがることになる。

そんな中で、最初に取扱いを開始いただいたのは、代官山「シンポジオン」、赤坂「燻」、銀座「煙事」、青山「スパイラルカフェ」、麻布十番「ザ・トウキョウレストラン」、ホテルオークラ「ハイランダー」などのそうそうたる顔ぶれだった。(この中で現存し、かつガージェリーの取り扱いを継続いただいているのは、燻、煙事、ハイランダー)今思えば、よくやったなという感じだ。


以降、社員4名、最大5名になり、キリンを離れてからは、しばらく2名、そして今は3名という体制で、とにかく飲食店へガージェリーを紹介する営業活動を黙々と続けて14年が経過。商品は樽詰が2種になり、2009年から瓶商品を順次3種発売して合計5種類になった。14年で5種類っていうのは他の大小ビール会社と比べて極端に少ないものだと思う。新商品で売るのではなく、ただただ定番をコツコツと足で広げたのだ。現在、取扱店は全国で1,000店を超えるまでなった。

話は最初に戻るが、代官山にはちょっとした因縁を感じる。というのも、ガージェリーの母体だったキリンが昨年、代官山にスプリングバレーブルワリーを開業したからだ。スプリングバレーブルワリーというのはもともとキリンビールの前身となる日本初のビール醸造所の名前。だから、ガージェリーを創業してまもない頃は、そのスプリングバレーを引き合いに出して、こんな記事を書いていただいたこともあった。<http://www.b-shoku.jp/tokushu/projectb/12/(2005年当時の記事)>

その元母体は、代官山だけでなく、国内最大手クラフトのヤッホーや、アメリカのブルックリンに資本を入れて、いろいろ本腰を入れてきているようだ。14年前にはとても考えられなかったよなぁ。

さて、そんなわけで、短いようで色々あった14年だった。ボク自身も途中7年半、ガージェリーから離れていた。しかし、世の中、とりわけビール市場がいかに変わったとしても、確固として変わっていないことがある。それはガージェリーの味、デザイン、そして飲食店限定ビールであるということだ。飲食店限定と銘打っておきながらいつのまにかコンビニエンスストアの棚に並んでいたっていう商品はいくらでもある。14年間、飲食店限定を貫いている商品はそうないだろう。飲食店限定を守ることが良い悪いという話ではない。飲食店以外でも飲みたいというお客様の要望に応えるという考え方も当然あり得る。それは、それぞれの生き方の問題だ。

ただ、約束を守る、ということが、ブランドの存在価値だということは忘れてはいけない。

「ブランド」という言葉の本来の意味を考えてみれば、明白なことだ。

ガージェリーは14年間守ってきた約束を、さらにずっと守り続ける。



2016年11月8日火曜日

偶然は必然

少し前の秋田への出張で、お得意先のバーへ飲みに行ったとき、本当に偶然、その日のお昼にインターネットでガージェリーを初めて知って、取扱店を調べて飲みに来たという人がいらっしゃった。その方がガージェリーを飲みつつバーテンダーさんと話しているまさしくその時、ガージェリーの会社の人間、つまりボクがどんぴしゃで入って来たので鳥肌ものの驚き。

バーカウンターでしばしガージェリーの生い立ちや目指していることについてお話しさせていただいた。その方は実は秋田の日本酒の蔵元に勤めていらっしゃり、是非自社の酒も飲んでみてほしいと、数日後、東京の弊社事務所へお酒を送ってくれた。

実はその方は日本酒業界のニューリーダー的な存在の蔵元の製造部門の方で、送っていただいたお酒も見るからに素敵。ありがたく頂戴いたします。事務所では飲めないので社長と分け合い持って帰ります。造り手の情熱をしっかり受け止めよう。偶然は偶然じゃなくて、必然なのだろう。



2016年10月29日土曜日

コクサイカのあり方

〝グローバル〟なんていうと大げさな感じがするので、少し古くて控えめな感じのする〝国際化〟という言葉にしておこうか。昨今はこの言葉から思い浮かぶ景色が変わってきたと思う。



自分が経験してきたビールに関わる仕事で言えばこんな感じ。

1990年代は、海外の商品の輸入が主流。アメリカやヨーロッパのビールブランドを日本で販売する。バドワイザーやハイネケン、ギネスなんかが代表格だろうか。その中でボクらは海外の会社から諸々勉強させてもらったりした。2000年代は海外の会社を買収して日本の会社が海外の事業のオーナーになった。ボクはオーストラリアの食品会社に出向したが、現地にいて日本側の対応がもどかしくてたまらなかった覚えがある。日本にいる日本人社員がいつまでも国境にこだわったような態度で、コトが遅々として進まなかったからだ。こういう状況は10年くらいかかって、やっと解消されてきたかもしれない。

そのうちにクールジャパンという言葉とともに、今度は日本の商品を文化とともに海外に売り込もうという気運が出てきた。僕は日本に戻り、日本のビールブランドを海外展開する仕事をもらった。2年ほど携わっていたが、日本人的にプライドを持って取り組める、やりがいのある役割だった。



それから少し経ってキリンビールを退社することを決めた時期だが、2014年11月にこのブログでこんなことを書いた。「世界に伝えたい日本のクラフトビール」というイベントに参加して、若い経営者たちの話を聞いての感想だ。

「イベントのタイトルはやや勇み足気味な感じはするものの、それぞれの会社が醸造や販売に関してそれぞれの形で海外とボーダレスにつながっていることが印象的だった。酒類、ビール類の消費量が減ってはいるものの、クラフトビールにとって日本の市場はまだまだ大きい。これまでの感覚なら、日本市場の開拓も途上の小規模な地ビール会社が海外市場にまで手を出すというのは拙速ということになるが、「日本より海外で売る方がやさしい」という言葉も出た。クールジャパンの追い風もあるだろうし、完成度の高い商品は外国でも十二分に魅力的。若い経営者にとって国境はハードルにならず、むしろビジネスチャンスと捉えている。」

クールジャパンと、世界的なクラフトビールブームの流れがあり、大手メーカーのブランドよりもチャンスがありそうだな、と思った。大きな設備投資をしてしまっているのが少し不安な会社もあるが、この流れはしばらく続くんだろうと思う。

さて、最初に言った、景色が変わってきたというのはここから。

日本の商品を海外に売り込むのではなく、日本にある商品・サービスを日本にあるがままに日本で楽しんでもらう、ということが一気に注目を浴びるようになった。わざわざここで書くまでもない様々な事象が起こっている。東京オリンピックの後押しも大きい。海外からの観光客が日本で時間、空間、文化を楽しんでいる。爆買いの中国人もモノより体験を楽しむ人が増えてきているようだ。



日本の飲食店でしか展開していないガージェリーはこれまで国際化という言葉は全く縁遠いと思っていた。キリンビールで海外事業に携わってきた自分だから、当然ガージェリーの海外展開というのは頭に浮かぶわけだが、この際立った商品コンセプトを守りつつっていうのは相当難しい話だし、コンセプトを妥協して海外展開しても意味はないと思っている。そもそも、正直なところ、そういう余裕は毛頭ない。そんな中、日本のガージェリー取扱店に外国人観光客が訪れて、「いったいこのビールはどこのビールだ?すごく美味しい!クールなグラスだ!」と驚いているという話が入って来るようになった。

そうそう、これでいいんだろうな、と思っている。日本の外食をもっと魅力的にしよう。日本に来た外国人をびっくりさせよう。ガージェリーは日本の飲食店でしか飲めないスーパークールなビールってことでいいじゃないか。輸出なんてせんでも良い。日本には愛すべき飲食店がたくさんあって、まだまだボクらはやるべきことが山ほどある。

そう思っている次第。



2016年10月2日日曜日

幸か不幸か花粉か風邪か

木曜日の午後から鼻水がぽたぽた出始め、飲みながら手拭いで拭き拭き。金曜日になると喉が痛み頭がだる重い。でも熱が無いのでこれはきっと秋の花粉症だと。今まではスギ花粉だけだったけれど、いよいよブタ草あたりが来たかと思い、行きつけの耳鼻科へ。



先生に上記症状を話し喉を診ていただくと、あっさり「こりゃ風邪だわ。」

さらに「飲むと悪化します。」と、何かを察したのか釘を刺された。でも、飲むのが仕事をなんで、ってちょっと反抗してみると「どこの会社?」と乗ってくるので、「ガージェリー」って正直に答えました。先生はそのままパソコンでググってガージェリーホームページへ。患者さんがほとんどいなかったからかノリノリで食いついてくださり、しばしビール談義。先生はドイツビール、特に小麦系が好きなんだそうだ。

今度飲みに行ってみるよと、嬉しそうに薬を処方してくれました。

その晩から発熱。やっぱり風邪だった。今後毎シーズン患う花粉症よりはましかな。

2016年8月31日水曜日

大阪で生まれた女はまだ歌っていない

1989年にボクはキリンビールに入社。赴任先は大阪支社だった。最初の4年はマーケティング関係の仕事、後半の4年半はスーパーやデパートを担当する営業を経験した。事務所は大阪の淀屋橋で、最後の1年程は土佐堀の新しいビルに通った。住まいはというと今は無くなってしまったキリンビール尼崎工場敷地内の独身寮、次は阪神大物(だいもつ)駅近くのワンルームマンション、そして西宮の社宅へと移り住んだ。つまり、職場は大阪市内、住まいは兵庫県東部という生活を8年半送ったわけ。西宮の社宅に住んでいた1995年に阪神淡路大震災が起こり、忘れられない時間を過ごした。そんな社会人初期、20代ど真ん中の青春を過ごした関西だったけれど、1997年に転勤をしてからはほとんど訪れる機会がなかった。梅田にヨドバシカメラができたのは知っていたけれど、初めて見たのは去年だったと思う。


20年近くが経過して、昨年後半から毎月関西を訪れるようになった。ガージェリーの営業のため、毎月3泊から4泊程度で飲食店まわりをしているのだ。久しぶりの心斎橋に難波、久しぶりの梅田界隈。戎橋近辺が外国人だらけになり、大阪駅の北側にはヨドバシカメラにグランフロント、そこに古巣のキリンビールが入っている。大きく変わったところもあれば、全然変わっていないように思えるところもある。しみじみ眺めて歩きたいのだけど、正直なところ、この1年はガージェリーの営業で一生懸命だった。とにかく歩いて歩いて飲食店を回った。昼は仕込み中のお店に飛び込み営業をかけて、夜は取扱店を中心に飲んで回る。観光の時間は無かった。それでそろそろ1年が過ぎる。大阪の取扱店は1年前は20店程度だったが、今は50店近く。当初はキタ、ミナミ中心に回っていたけれど、最近は行動範囲も広がり、芦屋、三ノ宮まで足を伸ばすようになった。


三ノ宮へ初めて営業に来て、最初に飛び込んだ店から数日後に注文をもらった。後で知ったのだけれど、そのお店は神戸の外食業界では知らない人はいないような有名な肉ビストロだった。バーを何軒かまわった後の遅い時間に、やっと空いたカウンター席に滑り込ませてもらい、ステーキに食らいついていると、地元神戸の女性がリュトンでガージェリーを飲んでくれている。きっと阪神・淡路大震災が起きた時は小学生くらいだっただろうか、20代後半くらいに見える。嬉しいのだけれど、ちょっと不思議な気持ちになる。


20年離れていた関西だけれど、こうやって動き回っていると、飲食店関係を中心に点が線になり、線が面になってくる。ボクはもうキリンビールの一員では無いが、このブランドと会社の人たちと忘れ得ない思い出を共有しており、実際、今でもあの時の人間関係にも助けられ、ここでガージェリーを広めている。ガージェリーはもともとは、ボクにしても社長にしても、キリンビールでの様々な経験を通して培われた想いから生まれ出てきたものだ。感謝しなければいけないのだ。

まだしばらく大阪から神戸にかけてを頻繁に訪れるだろう。一生懸命仕事をしている。時々、こちらの友人と誘い合わせてガージェリーの取扱店へ飲みに行くことはある。ただ、20年前にカラオケでよく歌っていた「大阪で生まれた女」は、まだ歌っていない。

2016年7月24日日曜日

芥川賞、三年連続です。

ガージェリーのホームページで年に2回程度のペースで更新しているショートストーリー。作家やエッセイストなど、文章を書くことを生業としている方々に、ガージェリーをイメージして短い文章を書いていただく。2004年の絲山秋子さんから始まり12年、32人の方々に執筆いただいた。少ない予算の中で始めたことなので、もうすでに有名になっているような人ではなく、当時はこれから、という方々に声をかけてきたが、一番最近のストーリーは、初めて芥川賞を受賞した後の作家さんにお願いすることができた。2013年に「穴」で受賞された小山田浩子さんだ。お願いしたのは過去にもお声がけした経緯もあったのだけれど、快くお受けいただき本当に嬉しかった。

そして、つい数日前、このストーリー関連で嬉しいことが、またまた起こった。2014年度上半期で芥川賞を受賞された柴崎友香さん、2015年度下半期で受賞された本谷有希子さんに続いて、2016年度上半期で藤田沙耶香さんが「コンビニ人間」で芥川賞を受賞された。なんと3年連続だ。藤田沙耶香さんには2012年にガージェリーショートストーリーを書いていただいている。「悪いことに乾杯」という女性二人の微笑ましい会話を描いているものだ。

ガージェリーのショートストーリーと芥川賞には何の関連もないが、2004年の一番番最初に書いていただいた絲山秋子さんが2年後の2005年下半期で受賞されたことを考えると、この賞に何かのご縁を感じざるを得ない。GARGERYというブランド名は、英国文豪チャールズ・ディケンズの代表作「大いなる遺産(GREAT EXPECTATIONS)」の登場人物からとっているので、そもそも文学との相性は良いし、この企画は主に新人の方々に声をかけてきているので、直木賞より芥川賞であることは必然と言えば必然なのだが、それにしても3年連続とは「やったね」としか言いようがない。そして、藤田さん、おめでとうございます!

もうすぐ発売される「コンビニ人間」を読むのが楽しみだ。





2016年7月11日月曜日

回想するにはまだ早い - 2016

10年前、livedoor blogでこれと似たようなブログを書いていました。2005年4月から2006年7月まで、1年3ヶ月ほど続けました。「マーケティング戦略部長日記」というタイトルは、まさしくビアスタイル21社での自分の肩書きを使っていましたが、一応、会社名、ブランド名は伏せ字にして、非公式という形で、少しでもガージェリーの宣伝になればと思っていたわけです。その最終回は2006年の7月17日だったので、あれからまさしく10年が経過しようとしています。久々に手元にある記録を読み返してみたら、最後の記事がとてもよく書けていたので、昨年ここで再掲したのですが、やはり10年前のことであり、状況も大きく変わっているので、現状に合わせて書き直しました。
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「回想するにはまだ早い–2016」

ボクらの会社は3人。小さな小さなビール会社だ。

社長兼ビール醸造責任者の佐々木、営業&ブランド伝道師の座間、そしてマーケティング責任者の自分だ。この3人になるまでの紆余曲折は置いておくが、事業を開始した2002年は4名だったので、成長ストーリーどころか社員数は減っている。そんな小さな会社が、よく14年も腰折れせず、粛々と、愚直に、同じ想いを持ってここまでやってきたものだなと思う。

2002年7月25日に株式会社ビアスタイル21は大手ビール会社の社内ベンチャー的な位置づけで設立された。この事業企画を一番最初から手掛けたのが社長の佐々木とボクの2人。ここに2名が加わり、4人でガージェリーというビールを開発し、会社設立に至った。

この事業企画に当たってのボクらの想いはこうだった。

日本のビール業界に疑問を感じている。ビジネスとして“量”ばかりを志向した商品。広告イメージ先行の商品。そして酒税法の隙間をついた価格訴求型の商品がますます広がっている。一方で消費者の嗜好性は着実に高まってきている。ワイン、日本酒、焼酎について一定の知識を持って楽しむ人は明らかに増えているし、モルトウィスキーを語る人もいる。ビールについても地ビール、ベルギービールなどについて小さな流れが始まっているように思える。

既存のビール業界の真ん中にいて感じるこの乖離感は何だろう。

お酒が大好き、ビールが大好きな自分たちが、仕事として、使命を持って、今やるべきことは何だろう?

徹底的に話し合い、4人の想いが収斂した。

既存のビール業界を否定するのではなく、新しいものを創らなければいけないと思った。アンチテーゼだけじゃ人を惹きつけることはできない。ビールが本来持っている可能性を引き出して、さらに他にはない魅力を加えたい。願わくば、飲んでいただいた人たちの生活や人生を演出する名脇役として長く愛されるものを創りたい。一番売れるビールではなくても、一番愛されるビールを創りたい。

それがガージェリーだ。
スタートは、ブランドのメッセージを最も力強く伝える商品一本で行くべきと考えた。ガージェリーのフラッグシップ商品として、ガージェリー・スタウトが生まれた。

そして、設立したのは醸造所を持たないビール会社。

本格的に独自のブランド展開を志向した“コントラクトブリュー(契約醸造)”という日本では初めてのビジネスモデルのビール会社。大手ビール会社の醸造設備では、ボクらが造ろうとしているビールの量には大き過ぎたし、また大手ならではの様々なルール、組織体制が、サイズ感が全く異なる事業においては足枷になるだろうと考えられたので、別会社にすることが重要だった。一方で、醸造設備を新たに造って大きな投資をするよりも、既存の地ビール会社をパートナーとして製造を委託することで、大きな設備投資を避け、新規事業としてのリスクを小さくすると同時に、お客様に新しい価値を伝える活動に力を注ぐことができる。



無駄なコストはかけない。だから事務所も都心から離れた古いペンシルビルの1フロア。大手ビール会社の快適な本社オフィスと異なり、掃除もゴミ出しも全部自分たちでやる。

当初、スタウトを新潟のエチゴビールに製造委託し、その後発売したエステラは静岡県の醸造所に委託した。(現在は、2009年以降に発売した瓶商品も含め、全てエチゴビールに委託。)醸造責任者の佐々木が、ビールのレシピを作り、原材料の手配をし、メールや電話で毎日醸造所とやり取りをしながら醸造管理をしている。

飲食店からいただく注文の数だけ毎日樽詰めをして、その翌日に冷蔵便でお店に届ける。365日無休で「昨日詰めたばかりの樽生ビール」を飲食店に届ける。これがガージェリーの品質の根幹。1日、2日程度なら妥協してもそれほど変わらないのでは、という考えは断ち切った。一歩の妥協は時間とともに積み重なり、想いはいつか形骸化する。この少人数で365日営業を続けているボクらもボクらだが、それに付き合っていただいている醸造所の方々に感謝しなければいけない。

醸造所を持たないボクらにとって唯一の有形資産はビールの樽だ。最近はご無沙汰しているが、自分たちで新しい樽にラベルシールを貼ったりもした。


そして、資産として最も大きいものは有形ではなく無形資産。
それは「ブランド」。つまり“ガージェリー”ブランドだ。この“ガージェリー”ブランドをお客様に認識していただくためには、グラスのデザインは極めて重要。当時、ガージェリーは樽詰ビールだけのブランドだったから、飲食店で形としてお客さんの目に触れるのはグラスだけだ。

だから誰もが一度見たら忘れられない形、しかもブランドとしてメッセージをしっかり持っているデザインにした。台座の穴に入れないと自立しないコーン型のオリジナルグラス「リュトン(角杯)」はガラスメーカーの職人さんを大いに困らせた。それでもなんとかやってしまうのが“職人”だ。

古代の酒器である角杯をイメージしたリュトンはガージェリーの顔。エレガントなシルエットはガージェリーのマーケティング上のターゲットにした30~40代の女性の手によく似合う。



そう、こだわりのビールをビールに詳しい人たちに訴えたかったんじゃない。外食を楽しみ美味しいものを知っていて、普段はワインやカクテルを飲んでいるような彼女たち。彼女たちに「新しいアルコール飲料」としてガージェリーに出逢って欲しかった。

だからボクらは“東京外食マーケット”のど真ん中からスタートした。そして2002年から2007年までの5年間は東京にエリアを絞って展開した。

ガージェリーの品質に対するこだわりを理解いただくことは大前提として、通常の大手ビールに比べると数割価格が高いプレミアムビールに対する受容性を持ち、お客様がそういうものを楽しみたいと思えるシチュエーションを提供する飲食店。

ってなことを考えながら、メンバーと喧々諤々議論しながら、街を歩いた。

お店の方に最初「新しいビール会社です。」と挨拶すると、たいていは「うちはビールは決まってるから。」とそっけなく言われる。しかもスタウトビールだと知ると「うちは黒ビールは売れないよ。」

でも、とにかく試飲していただく約束を取り付け、重たい試飲キットを持参。

最初はネガティブな反応をしていた人が、このキットを準備している最中、リュトンに目を奪われ、これにビールがサーヴされると風向きが変わる。一口飲んだ後には「ディスペンサーを置く場所があるかなぁ。」などと急に具体的な会話になったりして。

しかし取り扱いが始まってからの方が難しい。無名のビール、しかも“黒ビール”を注文するお客様はそんなに多くはない。お店の人がリコメンドするか、メニューでかなりアピールしていただかなければビールが回転しない。ビールが古くなって味が落ちたものを出したらガージェリーもお店も評判を落とすだけ。扱っていただかない方が良かったということになる。

だからPOPが重要な役割を果たす。普段はあまりPOPを置かないようなお店でも使用していただけるセンスのあるデザインが肝要。継続して使用していただけるよう季節に応じたデザインで入れ替えもする。カメラマンに格安で撮影をお願いし、デザイン、印刷は自前。毎シーズン、会社のプリンター、パウチ機はフル稼働。瓶商品を発売して取扱い店数が増えた今はさすがに季節毎のデザイン入れ替えはできないが、それでも自分たちで印刷しパウチして一店一店個別にアレンジしたPOPを用意するスタイルは変わっていない。



最初の数年で取扱店は都内約250店にまでなった。その間にイングリッシュパブチェーンとの素敵な出逢いがあり、同チェーンのオリジナルビールをボクらが提供することになった。それでもまだ売上規模は知れているからコストはかけられない。自分たちでグラスなどの備品をお店へ持って行ったり、生ビールディスペンサーの設置や撤去もできる限り自分たちでやった。



時には空樽が足りなくなりそうになる事態も起こる。先に言ったように、唯一の有形資産の樽をいかに効率良く使うかは経営上の重要なポイント。追加して購入すれば余裕を持って回せるかもしれないが、資金は限られている。だから、当時は自家用車を使って慌てて集めて回ったりもした。ちなみに当社は未だに社用車を持っていない。



こんな感じで、2002年から2007年までは大手ビール会社の子会社として事業展開した。しかし、当時はまだ現在のようなクラフトビールブームが来るなんて思っていなかったから止むを得ないが、この小さなビール事業は、簡単に言えば親会社から「戦力外通告」を受け、大手ビール会社の資本を離れることになった。社長の佐々木は大手ビール会社を退職し当社に残留。ボクともう一人は大手ビール会社に戻ることになった。

それから7年半後、ボクはその大手ビール会社を退職し、ビアスタイル21社に出戻りをした。この経過は、この「ビールの新しいスーリーをつくろう」ブログで断片的にだが書いてきた。大手ビール会社を退職する意思決定と、ビアスタイル21社への再就職は直接的な繋がりはない。別々の判断だ。ただ、今となっては、運命づけられていたものとしか思えない。

なんで、この小さなビール会社に戻ったのか。

若い頃にイメージしていた“ヤングエグゼクティブ”みたいな仕事とはずいん違う(そもそももうヤングではないが)。“取締役”だの“マーケティング責任者”なんて名刺を作ってみても、実際の仕事内容は、受注業務、宅配便の荷造り、POPのパウチ、備品のお届けだ。最近はフェイスブックやらツイッターという、この手の商品にはお誂え向きのメディアができたので、ここぞとばかりに“公式に”活用しているが、やっぱり写真を撮るのも自分、文章書くのも自分ってことで、休みの日にもパソコンに向かっている。

それでもだ、

素敵なお店に巡り逢うのが楽しい。

日本各地で季節を感じるのが楽しい。


人に巡り逢うのが楽しい。


友人が応援してくれるのが嬉しい。


そして、何より、自分が創り出した“ガージェリー”だから、

まさしく、自分の子供だから。

だから、ここに戻ってきた。

さて、こんなにガージェリーを想っていますと言ってみたが、実際のところ自分はガージェリーを7年半も離れていた。その間、当社は大手ビールの資本を離れたことによる自由もあっただろうが、ビジネス的には困難の方が大きかった。設立当初は4名だった社員数は、2008年から2012年まではたったの2名。2013年に大手小売企業から転職してきた座間が加わってやっと3名体制に戻った。よくぞ佐々木社長はここまで守ってきたと思う。


そして、2016年の“ガージェリー”。

あの頃の樽だけのガージェリーに、瓶の3種類が加わり、東京限定も解除してガージェリーは日本全国に広がりつつある。(3人なのに広げ過ぎ…とも思うが。笑)


一方、世の中はクラフトビールブーム。

2002年当初は四苦八苦していた地ビールメーカーの一部は大きく成長、設備投資をして増産体制、海外への展開も積極的だ。新しい会社も中小次々に立ち上がっている。大手ビール会社は新しいクラフトビールの会社を立ち上げ、一方で最大手クラフトビール銘柄の委託製造を受け入れ、その会社に資本を入れる。湧き起こってきたこのムーブメントに乗り遅れまいと力が入る。

実際のところ、ガージェリーはこのムーブメントにはほとんど乗っていない。特別に意図しているわけではないが、最近よく出るクラフトビール特集の雑誌には掲載されないし(なんでだろ?^^;)、各地で開催されるイベントに出店もしない、する余裕もない。確かに様々なビールに対する興味を持つ飲食店や消費者が増えたことで営業はしやすくなった。しかし、ガージェリーのコンセプトは、今の日本における多くのクラフトビールの受け入れられ方とは、かなり違ったところに軸足を置いている。そして、このコンセプトを変えるつもりは全くない。

飲み手の人生に寄り添うブランド、
自分だけの大切な時間を彩る、
こころまで満たすようなビール。

飲食店限定、醸造所からお店に冷蔵直送、
バーテンダー、ソムリエ、飲食のプロがサーヴする、
いつも変わらずそこにあって、長く愛されるビール。


さて、3名だけでやっているようなことを書いたが、想いを込めたビールを美味しく飲んでいただくためには、自分たちだけの力では及ばないところが実は大きい。お店までビールを届けることができても、お客さんの口元までは運べないから。

最後の最後の数メートル数センチはお店の人に託している。

だから、ボクらは街へ出ている。

バーテンダー、ソムリエ、フロアスタッフの方々に会いに行く。

お客様の前で、ガージェリーが花のように咲いていることを願いながら。


これは、事業を開始した14年前も今も少しも変わらない。微動だにしていない。

さあ、今日も街に出る。

ガージェリーに逢いに行く。

2016年7月5日火曜日

交差点で起こったこと

交差点の中でタクシーが止まった。商店街沿いの片側1車線道路と車両通行帯の無い住宅地を抜ける道路の小さな交差点だ。そうであっても交差点の中で車は停車してはいけない。信号が変わって走り始めたスクーターの行く手を遮る形になった。直進できず大きく旋回してタクシーを避けなければいけなくなったスクーターを運転するおじさんがべらんめい調で怒鳴った。

「どこに停めてんだ!このやろう!」

その時タクシーから降りてきていたのはかなり高齢のご夫婦で、先に降りた旦那さんが杖を持った奥様の手をとって降りるのを手伝っていた。簡単には降りれず苦労している様子だ。ガードレールや段差のあるところでなく、比較的降りやすい場所として停車位置にそこを選んだのだろうと推測できる。

スクーターのおじさんは「どこに停めてんだ!」と言っている最中はタクシーから降りてきている人が見えていなかっただろう。タクシーの運転手をにらめつけていたはずだ。「このやろう!」の最後のあたりでタクシーの正面を過ぎ視界の端に高齢の夫婦が目に入ったのだろう。こころもち「やろう!」の語尾のトーンが下がったように感じた。

交通ルールからすると100%タクシーが悪い。違反切符を切られても仕方の無い停め方だ。スクーターのおじさんが怒るのも無理はない。ただおじさんは状況が全部見えた瞬間に怒鳴ったことを後悔したのではないか。そう感じた。

腹立たしいことはある。怒るべき時もある。

ただ、怒りを露わにする前に、感情を露わにする前に、ちょっと飲み込んで、一歩引いて、できるだけ優しい気持ちでものごとを見て、それから自分の態度を決めるように、

できるようになればいいなぁ・・・と思いました・・・。

そして、ガージェリーを一杯。







2016年6月19日日曜日

キタで新しいストーリーが動き始めた

一軒のバーが今晩、最後の営業を迎える。北海道紋別郡遠軽町、サロマ湖はもちろん、知床半島までもう一息というところ。ボクがビアスタイル21社を一時離れる前、ガージェリーの情報発信を兼ねてブログをやっていた時、ブログランキングお酒部門の上位の常連だったことからお互いに知ることになった。以来、mixiやfacebookで交流はあったけれど、なかなかお店へは飲みに行けなかった。

だけど、一昨年やっと念願が叶った。あれが最初で最後になってしまったけれど、行って良かった。


あたたかいお店だった。オーナーの熱くて優しくて懐の深い人柄があらわれた居心地の良い空間で、常連の皆さんに心から愛されていると感じた。


あんなに良いお店が、そして最北端のガージェリーの取扱店でもある当店が、なくなってしまうのは寂しいけれど、それよりも、オーナーの〝boss〟が挑戦する次のストーリーがとても楽しみ。


もしかするとここからが始まりかもしれない。

2016年6月10日金曜日

ババのチカに見つけたアイ

高田馬場の一角に潜むバーのようなビストロのような店、BABA Picassoという、これまた楽しげな店名。この店は大久保にあるPicasso(1号店)、ピリカラソース(2号店)に次ぐ3号店なのだが、2003年に1号店でガージェリーを取り扱いただいたのが始まりで、これら3店全てでガージェリーが飲めるという、どう感謝して良いのやらということなのだが、ボクはここ高田馬場の店は、恥ずかしながら初めて。

来てみて、なんとも温かく嬉しい気分になったのは、この3店が5年前に実施したイベント、「ガージェリーフォトコンテスト」の入選作品が、いまだに壁に貼ってあること。



そして、ガージェリーがここ数年、年に1〜2回作っているガージェリーカードのバックナンバーが額に入れて飾ってあること。



これらはよく見なければガージェリー関連のものとはわからないのだけれど、だからこそ、ふと気づいた時には“愛”を感じちゃう。











もちもちっとした愛をほおばりながら、


感謝、感謝の乾杯。そういう顔に見えないのは、お赦しを・・・


Picassoホームページ

2016年5月22日日曜日

歩くこと、繰り返すこと。

とにかく出張先に行くと歩いている。一日10,000歩は当たり前、20,000歩を超える日も普通にある。街を北から南へ、東から西へ。飲食店が開店準備する時間を狙って飛び込み営業をする場合、お店の業態によって適した時間帯が違う。だから一旦こっちからあっちへ行って、またこっちへ戻ってきたりもする。だいたい午後3時から5時くらいの間がピークで、場合によっては小走りで移動する。そして夜になれば飲みながらの営業回り。


20,000歩の営業活動が終わり、深夜にビジネスホテルに戻る。するとさ、一瞬自分がどこにいるんだかわからなくなる時がある。どこも似た様な造りだし、一日中街を歩いているからホテル自体にほとんど心は置かれていない。昨晩泊まった別のホテルの部屋番号へ行ってしまいそうになったり。


まあ、そんな日々を過ごしています。

こういうことを繰り返していると、1年、2年が経過した時に、いつの間にか大きく前進したことに気づく。そういうことなのです。

2016年4月26日火曜日

夜な夜なブランドを背負うということ


ヤッホーブルーイングの井出直行社長の著書『よなよなエールがお世話になります。』の出版記念トークイベントに参加してきた。当書籍の編集に関わったフリージャーナリストの夏目幸明さんが井出さんにインタビューするような形式で、聴衆はPeatixというイベントアプリを通じて集まった200名程度の一般の方々。ボクのような業界の人間もある程度含まれていたんだろうとは思う。

まさしく"夜な夜な"飲食店を飲み歩いている自分の営業活動が一番忙しい時間帯にこのイベントに足を運んだ理由は、それなりにある。この会社に興味を持った理由がある。

2002年に自分がキリンビールの社内ベンチャーでビアスタイル21社を立ち上げ、ガージェリーの展開を始めた頃、ヤッホーブルーイングの当時の醸造責任者とお店やイベントなどで時々顔を合わせることがあった。その頃同社はハンドポンプでサーヴする「よなよなリアルエール」の展開を始めており、一般的な生ビールディスペンサーとは全く違う仕組みだけに、メーカーとしてもかなり現場に関与し指導することと経験の蓄積が必要な時期だったのだろう。だから〝顔見知り〟として少し親近感があった。また、いわゆる地ビールメーカーの中で、商品名に地名を使わず、〝夜な夜な飲む〟という、むしろ消費者側に立ったネーミングから、他の地ビールメーカーと少し違うなという印象を持っていたのだろう。

そしてもう少し後の話。キリンビールは2007年にビアスタイル21社を手放した。当時のこの判断について詳しくは書けないが、ガージェリーという小規模商品に戦略的な意味を見いださなかったということは言っても差し支えないだろう。また、よなよなエールは当時前年比数10%のペースで伸び始めていたとは言えボリューム的には極めて小さく、クラフトビールという言葉がまだ一般的には使われていなかった頃で、それがまさか昨今のような状態になるとは想像していなかったわけだ。しかしそれから8年後、そのキリンがクラフトビールのスプリングバレーブルワリーを立ち上げ、さらにはあのヤッホーブルーイングに出資することになるとは、なんと言うか、感慨深い、とでも言っておくか(笑)。

さて、話はトークイベントに戻る。井出社長のことは社長になる前からインターネット上の情報で多少存じ上げていたし、キリンの出資を発表した際のニュースでも、ヤッホーとキリン、並んで写っている二人の社長の対比(真面目なキリン社長とカジュアルな井出社長)が何とも印象的だったこともあって興味は持っていた。

2000年を過ぎた辺りの赤字が続いて廃業を考えざるを得ない状況から反転し、生まれ変わったと言って過言でないくらいに会社を活性化した井出社長の不断の努力と、それを可能にした人柄は大したものだと思う。今回上梓した著書もとても面白くためになった。ビール会社って、こんな風でありたいよね、って素直に思う。キリンビールの社員もそう感じている人は多いのではないか。


ヤッホー社の親会社である星野リゾートの星野社長は1984年に米国コーネル大学のホテル経営大学院に入学、一方、キリンの磯崎社長は1988年に同大学のホテル経営学科へ留学されているが、この辺りの関係もあるだろう、コンビニエンスストアを中心に急拡大する売上に対応する一方、設備投資のリスクを抑えるために、キリンに製造委託をしたヤッホー社。そしてキリンはヤッホー社全体の33.4%に当たる普通株式を所有することになった。

ちょっと興味深いのは、イベントの質問コーナーでキリンの出資について聞かれた時の井出社長の回答。「ヤッホー側は何も変わらない」「キリンの人たちが全国から入れ替わり立ち替わり見学に来るので毎度毎度懇親会が開かれている」ということだけで軽く流した。しかし、それだけで済む話ではなくなっているはず。それというのもこの4月からキリンビールが「よなよなエール」の飲食店向け大樽を販売開始した。キリンの業務用の営業が「よなよなエール」を売る。つまり「よなよなブランド」と消費者を繋ぐ人たちが一気に増えるわけだ。しかもその人たちは本来「キリン」という看板を背負っている。これを「よなよな」として「ヤッホー」としてどう考えているのか、どういう方針で臨むのかは、ブランド上、極めて重大な話だ。

興味深くはあるが、そこからは立ち入る話ではない。そのイベントが終わると、少し遅い時間になってしまったが、ボクは「ガージェリー」の看板を背負って街に出た。



2016年4月4日月曜日

天使の分け前とゴブヌの贈り物

ガージェリーのフェイスブックページに投稿しているお店紹介の記事。去年の春から始めてもう何店分くらい投稿しただろう。自分で言うのもなんだけど、文章はほとんどお店の紹介になっていない。お店の何らかの要素をピックアップし、それをネタにショートストーリーみたいなものを作っている。最後にガージェリーホームページのお店紹介ページにリンクを貼っているので、お店がどこのにあるのかかろうじてわかる。それが良いのか悪いのかはわからないが、今のところ何人かに聞いた限りでは好評のようだ。

そもそもガージェリーのフェイスブックページを見てくれている人は日本全国あちこちに住んでいらっしゃるので、紹介する店が必ずしも行ける範囲にあるとは限らない。むしろ、ほとんどのお店は縁の無い地域のお店だったりするので、個別のお店のプロフィールを詳細に記述するよりも、ちょっと外に飲みに出たくなるような、ガージェリーの取扱店へ行きたくなるような、そんなゆるい内容でオーケーなのではないか。ちょっとニヤリと笑ってしまうような内容の方が飽きずにフォローしてくれるのではないか。そう思って書いている。

今回取り上げたのは、世田谷区二子玉川の「Angels' share」さん。カウンターだけのコンパクトなオーセンティックバー。オーナーバーテンダーの人あたりが柔らかく、とても居心地の良いお店。


言うまでもなく、ウイスキーを樽で熟成している間に水分やアルコールが蒸発して目減りすることを言うAngels' share (天使の分け前)が店名の由来。


だから、棚に置いてあった天使のガラス細工を出していただき、こんな風に写真を撮らせていただいた。お客様からのいただき物だそう。

天使といえば、神様ってことで、ピンときたのがガージェリー23のラベル。ここに描かれているのはゴブヌというケルト神話に出てくる鍛冶の神様。ビール造りの名人で、そのビールには不老不死の秘術がかけられているそうな。


そもそも「ガージェリー」というブランド名は、小説『大いなる遺産』に出てくる鍛冶職人のジョー・ガージェリーから取ったのだけど、このラベルに描かれている絵は、実はジョー・ガージェリーではなくゴブヌなのだ。じゃあ、天使が分け前を持って行ってしまうのなら、ゴブヌは何をするのだろうと考えた。

ふむ、ガージェリー23は瓶の底に沈殿している酵母を混ぜて濁りビールにして飲むのが面白いビール。ここAngels' shareでもガージェリーを注ぐ時は、ほとんどのビールを注いだ後、少し瓶に残したビールをくるくる回して酵母を巻き上げてからグラスに注いでいる。その時、クリアなビールに濁った酵母入りビールが混ざっていく様子がとても印象的。

じゃあ、この酵母はゴブヌからの「贈り物」なんじゃないか。天使の分け前に対して、ゴブヌ神の贈り物、これはなんとも楽しい対比だ。そんなことを考えて文章を書いてみた。

なんてことをゆるゆるとやっているので、是非、ガージェリーのフェイスブックページをフォロー(いいね!)してみて下さ〜い。






2016年3月27日日曜日

21と23、50と1650

早いもので今年も3月が終わろうとしている。キリンビールを退社し、ビアスタイル21社に復帰してちょうど1年になる。いやはや、この1年で飲食店を何店回ったのか。飲みながらの訪問に、営業開始前に商談や飛び込み営業でお邪魔した店数を加えれば、延べで1,500店は軽く超え2,000店に迫る数だと思う。日々の歩いた歩数はiPhoneのアプリで自動的に記録されるが、フルで営業活動をした日は2万歩を超えているので、歩行距離もちょっとしたもんだろう。

2002年から2007年までの創業期にビアスタイル21社で同様の活動していた頃でも、これほどの店数は回っていなかったし、歩いていなかったのではないか。というのも、当時と比べると営業対象のお店が多くなっている。当時は10Lの樽詰ビール、ガージェリー・スタウトとガージェリー・エステラのみだった。通常のビールより高価で知名度の低いビールの樽詰め10Lを、品質維持できる期間で消化できるお店はかなり限られる。いかにお店の方がビールに興味を持っていても、ガージェリーを飲んでくれる可能性のあるお客様の絶対数がなければ、そのお店は営業の対象外とせざるを得なかった。

しかし、ビアスタイル21がキリンビールの資本を離れ、自分も一旦ガージェリーを離れた後のことだが、ガージェリーは瓶商品を発売した。ガージェリー23(トゥスリー)だ。これなら樽商品のようなビールの回転というハードルはほぼ問題がなくなり、取り扱いいただけるお店の幅は飛躍的に広がる。特に、お酒への興味度は高いが規模が小さくビールの消費量が大きくない、ほとんど全てのバーが営業対象になったのが大きい。

そういう事情もあり、昨年4月に自分がビアスタイル21社に戻ってきた時には取扱店が数倍に増えていたし、開拓活動にしても対象の幅が広くなっているので、自ずと営業活動も手数が増え、歩数も増え、杯数も増えるわけだ。いや、杯数だけは肝臓のキャパは変わらないどころか10年前に比べると落ちているだろうから、健康を考えて増やすわけにはいかないが。

なので、バーへお邪魔した場合、ガージェリー23を1本だけいただく。


それでも、1本330mlあるので、一晩で5店飲んで回れば1,650mlのビールを飲むことになる。これでぴったり抑えれば翌日に響くことはないが、ちょっとエンジンがかかってウイスキーを飲んでしまうことも無くはない。そしてこれを3日、4日続けるとさすがに堪えるし、休みの日はぐったりしてしまう。

前に書いたが、短期的に売上をアップさせることより大事なのは継続させること。これは会社だけのことではない。働く人間が継続的に健やかでいられなければ仕事の意味がない。そして仕事以外の生活を充実させることが結果として良い仕事につながる。まあ、ボクの場合は、ガージェリーが仕事であるとともに趣味みたいなところもあり、とても幸せなことだと思っているが、健康を維持しないとその幸せは続かない。

おっと.... 50歳まであと2週間になって、話すことも少々ジジ臭くなってきたか。まあ、これをしばらく続けつつ、どう繋いでいくのか、次はどうあるべきか、それを考えることが重要。ガージェリーにとっても、自分にとっても。


2016年3月20日日曜日

そこに行って繋がりたい

渋谷は円山町、ラブホテル街の中にあるバー、知る人ぞ知る、「bubbles (バブルス)」はこの3月で開店7周年を迎えた。

一見、カジュアルなバーなのだけれど、店主はかなりのこだわり派であり、ビールの品質維持はもちろん、特にチーズの品揃えはかなりのもので、もはやチーズバーと言っても良いくらい。

そんなお店だから営業が終わった同業者が噂を聞いて飲みにくるのだろう。


お手洗いの壁にびっしりと貼られた同業者の名刺やショップカード。ああ、あの店のもある、この店のもある、って見ていて飽きない。


ここで感じるのは、同業者に人気なんだなということだけでなく、お店同士で繋がりたい、切磋琢磨して自分のレベルを上げていきたいっていう気持ち。この仕事をしていると、一度行ってみたいお店があっても、営業時間がかぶっていたりしてなかなか行けない。でもなんとか交流を持って、自分の中に取り入れていきたい、そんなモチベーションがオーラとなって壁から出ている気がする。

そういう心意気溢れるお店に行くにはラブホテルをかいくぐって、ね。



2016年2月29日月曜日

10年前の、君のこころに残りたい

このブログの前身は2005年から2006年にかけてlivedoor blogにアップしていた『マーケティング戦略部長日記』なのだけど、あらためて読むと、今とまったく変わりない想いでやっていたんだなと、我ながら感心する。そんな10年近く前の日記を今回も1つ再掲。(文中2箇所の〝XXXXXX〟は今は存在しないサービスか、ガージェリー取扱いのなくなったお店)


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20060522
君のこころに残りたい

最近、このブログやmixiを通しての取扱店のお問い合わせをいただいたり、お店で飲んできたことをお知らせいただいたりして、本当に嬉しい限り。ありがとうございます。

またとは違うんだけど、昨年「XXXXXXX」という新しい専門学校をご紹介したところ、その記事を見たのがきっかけで受講するに至った、という御礼のメールを最近いただいた。ボクにとっては、ほんと何の気なしに書いた記事だったので、御礼を言われる筋ではないと思うが、まことに嬉しいことだ。逆にボクが元気づけられた。

先日のことだけど、のオフィシャルサイトの中で連載しているエッセイシリーズを次に書いていただく方と打ち合わせをした。
このエッセイシリーズ、なかなか好評なのだが、執筆いただいた作家さんが後に直木賞や芥川賞を受賞している。予算が無いために大活躍一歩手前の方々にお願いしているわけだが、さすがの目の付け所と言えよう。(って、ボクが人選しているわけではないけどね。)

で、次の作家さんは若手のタレント。大学院に所属し、ちゃんと勉強しつつテレビやラジオに出演している、誠に意欲旺盛な20代半ばの女性。
渋谷セルリアンタワーの「XXXXX」でGスタウトを召し上がっていただきながら打ち合わせをした。



彼女の“G”の感想が面白かった。

「このビールを初めて飲んだ時に、一緒にいた相手のことは一生忘れないでしょうね。」

最初は「嬉しいけど、それは大げさでは・・・?」と言いかけてしまったが、一呼吸置いて、なるほどと思った。
つまり「美味しい」ということだけを言いたいのではなくて、グラスのデザインを含め、そのシーンを「印象に残すことができる」ビールだということだ。
人間の認識というのは視覚が80%を占めるとどこかで聞いたが、その視覚での印象が強烈な上に、味、香り、そしてグラスの手触り。逆円錐のグラスを回したり、台座の穴に収めるように気をつけたりしながら、このビールについての会話を交わす。
結果として、そのシーンの印象が強まって(特に視覚として)、ずっと記憶に残ることになるかもしれない。



改めて意を強くしたが、は美味しいということだけを目指しているわけじゃない。飲んだ方の大切な時間を彩ることができればと思う。さらには、大切なときにこそ飲んでいただけるようになりたい。記憶に残るシーンの片隅にしっかり焼き付いている重要な脇役になりたい。

このことは外食業界の方々の志すものにも共通することだ。
美味しいものを提供するだけではなく、空間とサービスにも工夫を凝らして、いかにお客さんの時間を演出して楽しんでいただくか、感動していただくか、サプライズを創り出すか。

そう言えば、すっかり記事にしそびれていたが、先月、新しいお店のレセプションに出てきた。
グローバルダイニングの№2だった新川義弘氏が満を持して開店させた「Dazzle」。

天井高9mのダイニングフロア。その空間の一角を占める巨大なワインセラー。天井から吊るされた160個ものスワロフスキー製ライト。そこにカリスマとも言えるサービスマンが命を吹き込むわけだ。残念ながら取扱店ではないが、きっと記憶に残る時間を提供するお店になるだろうな。



例えば、このお店に初めて行った相手との思い出を大切に大切にしている。
そんな話が聞こえてくれば新川氏は本望だろうと思う。
他人の時間を、ひいては自分の時間を、いかに素敵に演出できるか、それが仕事の目的であり醍醐味。なぁんて言ったら、ちと気張り過ぎかもしれないが。

そんな想いを持った人たちと一緒に歩んでいきたい。そう考えているビールがあってもいいじゃないかい。

(以上、20060522日の投稿の再掲)
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2016年2月21日日曜日

注意しなければいけないこと

最近ね、ちょっと食べすぎかな、と思っているんです。


それは、自分が窓口をしているガージェリーの取扱店がバーに偏っているかな、


そんな風に思いまして、


食べ物が中心のお店へ、意識してガージェリーを案内しに行っていたわけです。


そんなに深刻な体重の変化があるわけではないですけれど、


営業で毎日1万歩、2万歩と歩いているし、


でも、少し気をつけないといけないなと、


思っております。