2016年7月11日月曜日

回想するにはまだ早い - 2016

10年前、livedoor blogでこれと似たようなブログを書いていました。2005年4月から2006年7月まで、1年3ヶ月ほど続けました。「マーケティング戦略部長日記」というタイトルは、まさしくビアスタイル21社での自分の肩書きを使っていましたが、一応、会社名、ブランド名は伏せ字にして、非公式という形で、少しでもガージェリーの宣伝になればと思っていたわけです。その最終回は2006年の7月17日だったので、あれからまさしく10年が経過しようとしています。久々に手元にある記録を読み返してみたら、最後の記事がとてもよく書けていたので、昨年ここで再掲したのですが、やはり10年前のことであり、状況も大きく変わっているので、現状に合わせて書き直しました。
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「回想するにはまだ早い–2016」

ボクらの会社は3人。小さな小さなビール会社だ。

社長兼ビール醸造責任者の佐々木、営業&ブランド伝道師の座間、そしてマーケティング責任者の自分だ。この3人になるまでの紆余曲折は置いておくが、事業を開始した2002年は4名だったので、成長ストーリーどころか社員数は減っている。そんな小さな会社が、よく14年も腰折れせず、粛々と、愚直に、同じ想いを持ってここまでやってきたものだなと思う。

2002年7月25日に株式会社ビアスタイル21は大手ビール会社の社内ベンチャー的な位置づけで設立された。この事業企画を一番最初から手掛けたのが社長の佐々木とボクの2人。ここに2名が加わり、4人でガージェリーというビールを開発し、会社設立に至った。

この事業企画に当たってのボクらの想いはこうだった。

日本のビール業界に疑問を感じている。ビジネスとして“量”ばかりを志向した商品。広告イメージ先行の商品。そして酒税法の隙間をついた価格訴求型の商品がますます広がっている。一方で消費者の嗜好性は着実に高まってきている。ワイン、日本酒、焼酎について一定の知識を持って楽しむ人は明らかに増えているし、モルトウィスキーを語る人もいる。ビールについても地ビール、ベルギービールなどについて小さな流れが始まっているように思える。

既存のビール業界の真ん中にいて感じるこの乖離感は何だろう。

お酒が大好き、ビールが大好きな自分たちが、仕事として、使命を持って、今やるべきことは何だろう?

徹底的に話し合い、4人の想いが収斂した。

既存のビール業界を否定するのではなく、新しいものを創らなければいけないと思った。アンチテーゼだけじゃ人を惹きつけることはできない。ビールが本来持っている可能性を引き出して、さらに他にはない魅力を加えたい。願わくば、飲んでいただいた人たちの生活や人生を演出する名脇役として長く愛されるものを創りたい。一番売れるビールではなくても、一番愛されるビールを創りたい。

それがガージェリーだ。
スタートは、ブランドのメッセージを最も力強く伝える商品一本で行くべきと考えた。ガージェリーのフラッグシップ商品として、ガージェリー・スタウトが生まれた。

そして、設立したのは醸造所を持たないビール会社。

本格的に独自のブランド展開を志向した“コントラクトブリュー(契約醸造)”という日本では初めてのビジネスモデルのビール会社。大手ビール会社の醸造設備では、ボクらが造ろうとしているビールの量には大き過ぎたし、また大手ならではの様々なルール、組織体制が、サイズ感が全く異なる事業においては足枷になるだろうと考えられたので、別会社にすることが重要だった。一方で、醸造設備を新たに造って大きな投資をするよりも、既存の地ビール会社をパートナーとして製造を委託することで、大きな設備投資を避け、新規事業としてのリスクを小さくすると同時に、お客様に新しい価値を伝える活動に力を注ぐことができる。



無駄なコストはかけない。だから事務所も都心から離れた古いペンシルビルの1フロア。大手ビール会社の快適な本社オフィスと異なり、掃除もゴミ出しも全部自分たちでやる。

当初、スタウトを新潟のエチゴビールに製造委託し、その後発売したエステラは静岡県の醸造所に委託した。(現在は、2009年以降に発売した瓶商品も含め、全てエチゴビールに委託。)醸造責任者の佐々木が、ビールのレシピを作り、原材料の手配をし、メールや電話で毎日醸造所とやり取りをしながら醸造管理をしている。

飲食店からいただく注文の数だけ毎日樽詰めをして、その翌日に冷蔵便でお店に届ける。365日無休で「昨日詰めたばかりの樽生ビール」を飲食店に届ける。これがガージェリーの品質の根幹。1日、2日程度なら妥協してもそれほど変わらないのでは、という考えは断ち切った。一歩の妥協は時間とともに積み重なり、想いはいつか形骸化する。この少人数で365日営業を続けているボクらもボクらだが、それに付き合っていただいている醸造所の方々に感謝しなければいけない。

醸造所を持たないボクらにとって唯一の有形資産はビールの樽だ。最近はご無沙汰しているが、自分たちで新しい樽にラベルシールを貼ったりもした。


そして、資産として最も大きいものは有形ではなく無形資産。
それは「ブランド」。つまり“ガージェリー”ブランドだ。この“ガージェリー”ブランドをお客様に認識していただくためには、グラスのデザインは極めて重要。当時、ガージェリーは樽詰ビールだけのブランドだったから、飲食店で形としてお客さんの目に触れるのはグラスだけだ。

だから誰もが一度見たら忘れられない形、しかもブランドとしてメッセージをしっかり持っているデザインにした。台座の穴に入れないと自立しないコーン型のオリジナルグラス「リュトン(角杯)」はガラスメーカーの職人さんを大いに困らせた。それでもなんとかやってしまうのが“職人”だ。

古代の酒器である角杯をイメージしたリュトンはガージェリーの顔。エレガントなシルエットはガージェリーのマーケティング上のターゲットにした30~40代の女性の手によく似合う。



そう、こだわりのビールをビールに詳しい人たちに訴えたかったんじゃない。外食を楽しみ美味しいものを知っていて、普段はワインやカクテルを飲んでいるような彼女たち。彼女たちに「新しいアルコール飲料」としてガージェリーに出逢って欲しかった。

だからボクらは“東京外食マーケット”のど真ん中からスタートした。そして2002年から2007年までの5年間は東京にエリアを絞って展開した。

ガージェリーの品質に対するこだわりを理解いただくことは大前提として、通常の大手ビールに比べると数割価格が高いプレミアムビールに対する受容性を持ち、お客様がそういうものを楽しみたいと思えるシチュエーションを提供する飲食店。

ってなことを考えながら、メンバーと喧々諤々議論しながら、街を歩いた。

お店の方に最初「新しいビール会社です。」と挨拶すると、たいていは「うちはビールは決まってるから。」とそっけなく言われる。しかもスタウトビールだと知ると「うちは黒ビールは売れないよ。」

でも、とにかく試飲していただく約束を取り付け、重たい試飲キットを持参。

最初はネガティブな反応をしていた人が、このキットを準備している最中、リュトンに目を奪われ、これにビールがサーヴされると風向きが変わる。一口飲んだ後には「ディスペンサーを置く場所があるかなぁ。」などと急に具体的な会話になったりして。

しかし取り扱いが始まってからの方が難しい。無名のビール、しかも“黒ビール”を注文するお客様はそんなに多くはない。お店の人がリコメンドするか、メニューでかなりアピールしていただかなければビールが回転しない。ビールが古くなって味が落ちたものを出したらガージェリーもお店も評判を落とすだけ。扱っていただかない方が良かったということになる。

だからPOPが重要な役割を果たす。普段はあまりPOPを置かないようなお店でも使用していただけるセンスのあるデザインが肝要。継続して使用していただけるよう季節に応じたデザインで入れ替えもする。カメラマンに格安で撮影をお願いし、デザイン、印刷は自前。毎シーズン、会社のプリンター、パウチ機はフル稼働。瓶商品を発売して取扱い店数が増えた今はさすがに季節毎のデザイン入れ替えはできないが、それでも自分たちで印刷しパウチして一店一店個別にアレンジしたPOPを用意するスタイルは変わっていない。



最初の数年で取扱店は都内約250店にまでなった。その間にイングリッシュパブチェーンとの素敵な出逢いがあり、同チェーンのオリジナルビールをボクらが提供することになった。それでもまだ売上規模は知れているからコストはかけられない。自分たちでグラスなどの備品をお店へ持って行ったり、生ビールディスペンサーの設置や撤去もできる限り自分たちでやった。



時には空樽が足りなくなりそうになる事態も起こる。先に言ったように、唯一の有形資産の樽をいかに効率良く使うかは経営上の重要なポイント。追加して購入すれば余裕を持って回せるかもしれないが、資金は限られている。だから、当時は自家用車を使って慌てて集めて回ったりもした。ちなみに当社は未だに社用車を持っていない。



こんな感じで、2002年から2007年までは大手ビール会社の子会社として事業展開した。しかし、当時はまだ現在のようなクラフトビールブームが来るなんて思っていなかったから止むを得ないが、この小さなビール事業は、簡単に言えば親会社から「戦力外通告」を受け、大手ビール会社の資本を離れることになった。社長の佐々木は大手ビール会社を退職し当社に残留。ボクともう一人は大手ビール会社に戻ることになった。

それから7年半後、ボクはその大手ビール会社を退職し、ビアスタイル21社に出戻りをした。この経過は、この「ビールの新しいスーリーをつくろう」ブログで断片的にだが書いてきた。大手ビール会社を退職する意思決定と、ビアスタイル21社への再就職は直接的な繋がりはない。別々の判断だ。ただ、今となっては、運命づけられていたものとしか思えない。

なんで、この小さなビール会社に戻ったのか。

若い頃にイメージしていた“ヤングエグゼクティブ”みたいな仕事とはずいん違う(そもそももうヤングではないが)。“取締役”だの“マーケティング責任者”なんて名刺を作ってみても、実際の仕事内容は、受注業務、宅配便の荷造り、POPのパウチ、備品のお届けだ。最近はフェイスブックやらツイッターという、この手の商品にはお誂え向きのメディアができたので、ここぞとばかりに“公式に”活用しているが、やっぱり写真を撮るのも自分、文章書くのも自分ってことで、休みの日にもパソコンに向かっている。

それでもだ、

素敵なお店に巡り逢うのが楽しい。

日本各地で季節を感じるのが楽しい。


人に巡り逢うのが楽しい。


友人が応援してくれるのが嬉しい。


そして、何より、自分が創り出した“ガージェリー”だから、

まさしく、自分の子供だから。

だから、ここに戻ってきた。

さて、こんなにガージェリーを想っていますと言ってみたが、実際のところ自分はガージェリーを7年半も離れていた。その間、当社は大手ビールの資本を離れたことによる自由もあっただろうが、ビジネス的には困難の方が大きかった。設立当初は4名だった社員数は、2008年から2012年まではたったの2名。2013年に大手小売企業から転職してきた座間が加わってやっと3名体制に戻った。よくぞ佐々木社長はここまで守ってきたと思う。


そして、2016年の“ガージェリー”。

あの頃の樽だけのガージェリーに、瓶の3種類が加わり、東京限定も解除してガージェリーは日本全国に広がりつつある。(3人なのに広げ過ぎ…とも思うが。笑)


一方、世の中はクラフトビールブーム。

2002年当初は四苦八苦していた地ビールメーカーの一部は大きく成長、設備投資をして増産体制、海外への展開も積極的だ。新しい会社も中小次々に立ち上がっている。大手ビール会社は新しいクラフトビールの会社を立ち上げ、一方で最大手クラフトビール銘柄の委託製造を受け入れ、その会社に資本を入れる。湧き起こってきたこのムーブメントに乗り遅れまいと力が入る。

実際のところ、ガージェリーはこのムーブメントにはほとんど乗っていない。特別に意図しているわけではないが、最近よく出るクラフトビール特集の雑誌には掲載されないし(なんでだろ?^^;)、各地で開催されるイベントに出店もしない、する余裕もない。確かに様々なビールに対する興味を持つ飲食店や消費者が増えたことで営業はしやすくなった。しかし、ガージェリーのコンセプトは、今の日本における多くのクラフトビールの受け入れられ方とは、かなり違ったところに軸足を置いている。そして、このコンセプトを変えるつもりは全くない。

飲み手の人生に寄り添うブランド、
自分だけの大切な時間を彩る、
こころまで満たすようなビール。

飲食店限定、醸造所からお店に冷蔵直送、
バーテンダー、ソムリエ、飲食のプロがサーヴする、
いつも変わらずそこにあって、長く愛されるビール。


さて、3名だけでやっているようなことを書いたが、想いを込めたビールを美味しく飲んでいただくためには、自分たちだけの力では及ばないところが実は大きい。お店までビールを届けることができても、お客さんの口元までは運べないから。

最後の最後の数メートル数センチはお店の人に託している。

だから、ボクらは街へ出ている。

バーテンダー、ソムリエ、フロアスタッフの方々に会いに行く。

お客様の前で、ガージェリーが花のように咲いていることを願いながら。


これは、事業を開始した14年前も今も少しも変わらない。微動だにしていない。

さあ、今日も街に出る。

ガージェリーに逢いに行く。

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