2018年10月14日日曜日

ロマンを語ろう、舞台に立とう!

今年の春からガージェリーの仕事と並行して、エチゴビールのマーケティング責任者の役割をいただきました。
まず一番最初の大仕事と思ったのは、エチゴビールというブランドのメッセージを確立すること。そのために創業者の上原誠一郎さんに会いに行きました。だいぶ前に当事業から退かれていらっしゃいますが、まずは創業当時の話を聞くことが全ての起点だと思ったからです。詳細はホームページの「ABOUT US」を見ていただくこととして、そこから出てきた言葉は「ロマンを語ろう、舞台に立とう」でした。
上原さんは1980年頃イタリアのローマで演劇家をされていて、そこで絵本画家のドイツ人女性と出会ったことが、ドイツの多様で深いビール文化を知ったきっかけでした。そしてそれが日本で地ビール第一号となる事業に繋がる起点だったのです。そしてエチゴビールのヤギの絵は、その絵本画家の女性が描いたものです。なんとロマンティックな話だろうと思いました。そんなブランドを預かることになった幸せを噛み締めながら、新しいホームページを立ち上げました。
Let's be romantic, act on stage!
これが、エチゴビールのブランドメッセージ。みんなの人生がもっともっと豊かでビビッドになるよう、応援するブランドです。
<エチゴビール新ホームページ>

2018年9月2日日曜日

メルボルンに想いを馳せて

20094月から20113月まで、僕はオーストラリアのメルボルンにいた。ビール会社が買収した乳業会社に駐在員として単身赴任していたのだ。今回はそこでの仕事の話ではなく、“音楽活動”について書きたい。突然書きたくなった。

メルボルンの街中はストリートミュージシャン、大道芸人が多い。現地ではBuskerと言う。日本では一度もやったことはなかったが、もともと人前で演奏するのが好きな自分は、当地の路上ミュージシャンのレベルが結構ピンキリなのを見て、この人がOKなら自分も...なんてことで少し興味を持っていた。とはいえ、初めての海外駐在、外国だけに当初は勝手もわからないし勇気もない。駐在1年10ヶ月が過ぎた頃に、ついに思い立った。Buskerには許可がいる。事前に身分証明と演奏内容等を市に届け出て許可証を発行してもらう。取ってみれば、あっけないものだったが、腰を上げた直後に会社から日本へ戻る異動の内示が出た。最初の路上演奏の前日だ。結果としてメルボルン思い出づくりリサイタルみたいになってしまったわけ。まあ、だからこそ、それから毎週末にムキになって街に出た。

決行の一ヶ月前くらい前に路上演奏に必要な道具を揃えた。アンプ、マイク、スタンド、譜面台を買い、演奏曲の譜面をコピーしてファイルに整理。そして一番重要なのは演奏そのものだから、もちろん集中して練習をした。どの曲が路上で映えるかを考えつつ。



いよいよ初演奏の晩、夜の8時頃、道具を持って外に出た。僕の住処はCROWNカジノのすぐ近くだった。観光客が練り歩くYarra川沿いは深夜まで多くの人が出歩いている。本格的なバンド演奏をしている人たちもいれば、曲芸師もいる。土曜だけに人通リもBuskerも多く賑やか。どこでやろうかと彷徨って、とりあえずここかなと、BuskerBuskerの間で演奏の準備を始めたら年配のBuskerが寄ってきて、ここは隣のBuskerに近すぎるのでダメだという。よくよく話してみると、どうやら自分がこの近くで始めようとしているから、あっちへ行けということを遠回しに言っているんだということに気づいた。まあ、ベテランと争ってもしかたないので、やや不満顔ながら道具をまとめて場所を移動した

先の場所より少々暗いが人通りもある。他のBuskerは見当たらない。ここでいいんじゃないかと、改めてマイクスタンドや譜面台、アンプをセッティング。いよいよ生まれて初めての、しかも海外での路上演奏。多少緊張もしているから、やや指先がもつれる感じではあるが、だんだん調子に乗ってきた。



長渕剛や吉田拓郎の歌を歌っていると、アジア系の人たち、たぶん中国人や韓国人の比較的若い人が立ち止まって、お金を投げ入れてくれる。Bob Dylanを歌うと西欧系の年配の方々の反応が良い。サザンのいとしのエリーは案外、西欧系の若い女性が反応する。エリーさんなのかしら?なんて思いつつ。

そして90分ほど演奏したところに、黒スーツのいかついお兄さんが二人やってきた。ここはCROWNカジノの私有地だから演奏はだめだと言う。あらら、そりゃ申し訳ありませんでしたと素直に謝ったら、ちゃんと許可証も提示してるし、今やめてくれたら問題ないよ。と優しく対応してくれた。

気づいてみるとギターケースにかなりコインが入っている。5ドル札も1枚。お金に興味があってやっているわけではないけど嬉しかった。44歳の初体験だった。



2011320日の日曜日が7回目でかつ最後のBusking。毎回それなりに何かしらあったけど、その日は印象的なことが2つあった。場所はやはりYarra川沿いのSouthgateからCrownカジノへ向かう遊歩道。時間は夕方6時くらいだったか。

演奏の準備のためマイクスタンドを組み立てギターをアンプにつないでいると10人くらいの団体さんが通りがかった。そのうちの2名は見たことのあるお顔。メルボルン総領事館の皆さんがお客さんと食事に出かけるところ。総領事館の代表の方が是非一曲聴いていきたいとおっしゃるもんで、急いで準備を済ませBob Dylanの“Blowin' in the wind”を歌った。

それからしばらく経って、長渕剛の素顔を歌っていた。まさに純日本フォーク。普通の感覚だったらこんなところで演奏する曲じゃない。でも7回の路上演奏の経験で、案外こういう歌が外国人の興味を引くこともわかってきていたし、歌っていてまた気持ちが良い。ちょい気温が高かったこともあり汗だくになって歌っていた。すると、通りがかった若いカップルの一人、女の子が立ち止まり、じっと聴き入っている。ついには曲の最後まで聴いてくれて歩み寄ってきた。「その曲はあなたが作ったのか、それとも誰かの曲か?」と。曲名、アーティスト名、そしてボクの名前をメモって、待ちくたびれた感じの彼氏と去っていった彼女はロシア人。メルボルンに語学留学に来ているとのこと。その彼女とは今もfacebookで繋がっている。

全部で7回の演奏は、各90分くらいずつやった。毎回汗だくになり、指の爪は割れた。



途中、東日本大震災が起こった。


2週間後に帰国する日本はいったいどうなるのか?いろいろな思いをもって、声を張り上げた。

メルボルン市の職員に2度ほど音が大きいと注意された。マイクの音量を下げろというが、どうやらマイクを使わずとも自分は十分大きな声らしい。

90分に1回か2回くらいは冷やかしをする奴らが通りかかる。自分が思いを込めて歌っているときに邪魔をされると頭にくるので、一人蹴っ飛ばしちゃった。

結果として、いただいたチップ181豪ドルはオーストラリア赤十字へ寄付。豪ドルに混じって投げ込まれていた1中国元、10インドルピー、2米ドルは記念に手元に残すことにした。

あれから7年か。しかし企業の駐在員とは思えないことやっていたな。




2018年5月1日火曜日

16年目の恩返し

報告があります。

新しいステージが始まるという少し思わせぶりな表現を使っていたけれど、居所も落ち着いたことだし、このあたりで概要を説明させてもらいます。

この春から新しい役割を担うことになりました。全国第一号の地ビール、エチゴビールでマーケティングの責任者をします。地ビールやクラフトビールに興味のある方なら大抵は知っている名前だと思います。1994年に日本でビール製造免許を取得するための最低製造量が2000KLから60KLに引き下げられた際に、一番最初に免許を取って以降、地ビールの代表格として親しまれてきたビールです。


同社について詳しく書くのはこれからということにして、こことボクの関係はと言えば、もちろんガージェリー繋がり。ビアスタイル21が2002年にガージェリー・スタウトを発売して事業をスタートしてからずっと委託製造を続けてきてくれた会社なのです。ガージェリーの樽詰め・出荷は正真正銘の365日体制で、ビアスタイル21のメンバーが毎日気が抜けないのは、自分たちで決めたことだから当たり前のこととして、製造・出荷というまさしく物を動かす現場で365日営業につき合ってくれてきてくれた同社には感謝しても感謝しきれません。これに対して、恩返しをするチャンスをやっと得ることができたと思っています。

一方、ビアスタイル21でのガージェリーの仕事は変わりません。今までどおり、ガージェリーのマーケティングに責任を持っているし、お得意先の飲食店に夜な夜な顔を出すことは全く変わらない。つまり、会社をまたいでの兼任。ざっくり言うと、昼はエチゴ、夜はガージェリー...って、自分 大丈夫か?という感じですが(笑)。

2つの大きな役割を兼任するのに、さすがに事務所をあっち行ってこっち行ってというのは、いかにも効率が悪い。普及してきたノマド的な働き方でカバーしきれるものではない。顔を合わせてのチームプレーが大切。ということもあり、今回の引越しはそういうことも考慮してのもの。エチゴビールはご存知のとおり新潟の会社なのだけれども、東京にも小さな事務所を持っているので、そこに合流したというわけです。そういういろいろもまた追って。

精一杯やります!これからエチゴビールもガージェリーもじわじわくるよ(^。^)!





2018年4月16日月曜日

思い出を詰め込んで

4月半ば、実は引っ越し作業に追われていた。弊社は2002年の会社設立時から武蔵小金井を拠点にしてきたのだけれど、16年目にして、ついに移転することにした。その経緯や理由は追い追い書きたいと思うが、とにかく初めての引越しだ。創業以来積もりに積もった物品を整理しながらの荷造りは、懐かしいものに目が行き、ついつい手が止まってしまう。


当時の雑誌の裏表紙。懐かしい商品広告!


外食関係の情報誌。2004年には廃刊になっている。こういう雑誌から営業をかけるべき飲食店を選び出し、リストを作った覚えがある。


あと、こんな什器も。ガージェリーではハンドポンプは使用していないけれど、研究・商品開発のために購入して試してみた。


そんなことを数日やって、ついに4月14日、引越し屋さんが荷物を持ち出し、小金井の事務所は空っぽに。


お世話になりました!


この武蔵小金井南口の景色ともお別れだ。


まあ、ガージェリーの取扱店があるので、もちろんまた来るのだけど。

さあ、赤坂に向かう!

2018年4月1日日曜日

桜が舞い、新しいステージが始まる。

こんなに桜を満喫できたシーズンはないですな。

思ったより早く咲き始め、


あっという間に満開だった。

市ヶ谷の外濠公園近くに急遽ビールディスペンサーを運ぶことになって見た桜。


その後、大にぎわいの中目黒で見た桜。


中目黒から目黒方面へ川沿い下流方向に歩きながら見た桜。


中野通りは風が吹くと花びらが舞い街を彩っていた。


渋谷、桜丘はなぜ「桜丘」と呼ばれるのか、実感。

桜吹雪を楽しみながら飲んだガージェリー・スタウトは最高だった。


外濠の桜は散り始めると水面を彩り、これもまた良い。


市ヶ谷から少し歩けばゴージャスな千鳥ヶ淵。


さあ、稀に見る素晴らしい桜の一週間もそろそろ終盤。


新しいステージへ踏み出そう!

2018年2月1日木曜日

年月を味方につける

ガージェリー23は瓶内熟成を謳っており賞味期限を3年に設定している。たいていのビールは6ヶ月、9ヶ月、12ヶ月というところが多く、実際何ヶ月も経過したものは美味しいと言えるものではなくなる。でも一部のビールは何年も置いて「劣化」ではなく「熟成」を楽しめる。この「劣化」と「熟成」の境界は極めてあいまいで、人間が美味しいと思えば「熟成」になる、と言っても良いだろう。

「劣化」の原因となる一番大きい変化は「酸化」だ。醸造・熟成タンクからビールを瓶や缶、樽などの容器に詰めた際に混入する空気中の酸素が大きな問題。これについてガージェリー23がどうして「熟成」を味方につけることができるかは、こちらのブログを呼んでもらえれば。

さて、本日は製造を開始した当時である2009年4月28日製造のWheat、約8年9ヶ月の常温保管品を飲んでみた。右は6ヶ月冷蔵保管の通常のもの。


まず、色はかなり濃くなっているが、透明感を保っている。もちろん瓶底には酵母が沈殿しているのだが、これはかなり色が黒ずんでおり、なるべく巻き上げないようにするのが良い。香りは、梅酒を思わせる。口に含むとそのとおり、あっさりした梅酒か、紹興酒を思わせる味わい。そして驚くほど雑味がない。これなら嗜好品として十分に楽しむことができるし、どんどん飲めそう。





というわけで、グラスも試飲から、本格飲みモードへ・・・(笑)

2018年1月5日金曜日

変わらないために、変える、2018


2018年になっちゃった。
すごい未来感。でも、なんとなくしっくりくる数字ではある。

キリンビールを退職してビアスタイル21に復帰し今春で3年になる。ビアスタイル21を7年半離れての復帰だったけれど、もともと自分で立ち上げた事業なのでごく自然に馴染むことができたし、3年経つと、もはや15年ずっとやってきたような気分にもなる。(初めてこのブログを読む方はガージェリー公式ブログのこの投稿をご覧いただくと上記の意味がわかりやすくなると思います。)

なので、15年間を感慨深く振り返るわけだが(笑)、事業スタート当時は、ガージェリー・スタウトとガージェリー・エステラ、たった2種類の樽詰ビールだけ、しかも展開エリアを東京だけに絞った飲食店限定のプレミアムビールという位置付けで展開していた。デフレの真っ只中で、ビール市場もいわゆる節税ビールとしての発泡酒が全盛の中、当時の感覚では“超”をつけてもよいくらいのプレミアム価格だったし、ビールといえば大手ブランドが絶対的な存在だったので、飲食店への案内はなかなかハードルが高かった



そして今、あの頃からビール市場もずいぶん変わった。大手ビール各社はプレミアムビールに力を入れ、10年前は下火だった“地ビール”は“クラフトビール”として一つのムーブメントになり、大手のマーケティング戦略や商品開発、さらには資本関係にも影響を与えている。ガージェリーは、ブランドイメージを“地ビール”というカテゴリーから意識して距離を置いてきたけれど、最近の“プレミアムビール”、“クラフトビール”ということになると、一般的な感覚ではガージェリーもそのカテゴリーに分類されるだろうし、そういうカテゴリーを認識している飲食店が増えたので案内しやすくなったことは確かだ。

最近、飲食店の方やお客様と話していると、「味の評判もいいし、デザインもカッコ良い、せっかくのクラフトビールブームなんだし、問屋さんや酒屋さんに卸したり、ネット通販なんかで販路を広げれば一気に倍々で売れるんじゃない?」「限定樽詰ビールは出さないの?」「次の新商品はいつ出すの?」そんなことを聞かれることが多くなった。

そもそも、そうする余裕もないのだが、正直なところ、やることが得策だとも思っていない。ビジネスとして売上は上げていかなければならない。利益を上げれなければ成り立たない。それが前提だけど、短期的に大きな売上や利益を上げることよりも大事なのは「続けられること」と「存在価値を高めること」。言い換えれば「ブランドをつくること」だと思っている。
「ブランドをつくる」、それはつまり、ストーリーをつくりたい、それを誰かと共有したい、そしてそれを受け継いでいきたい。そういうことだと思っている。



2002年に、ガージェリーの商品開発段階で決めたことは、物性的には醸造所を出てから飲む瞬間までのコンディションということに絶対的に軸足を置き、情緒的には、人々が外飲みという特別な意味を持つシチュエーションで、その時間を豊かにして、願わくば、こころまでを満たしたい、そういうビールを提供する、ということだった。そしてそのためには、お客様がビールを飲むその瞬間に立ち会う、飲食店の人たちと手を携えていかなければいけない。それをどこまでも真摯に実践して行く。

それがガージェリーのストーリーであり、ガージェリーの存在価値なのだ。15年経った今も変わっていない。

それからこの「GARGERY(ガージェリー)」というブランド名。イギリスの作家、チャールズ・ディケンズの小説『大いなる遺産』に登場する心優しい鍛冶職人の名前で、主人公ピップが、予期せず手にした大きな資産のために心惑う人生を送る中、いつも変わらぬ大きな愛情を持って接したのがJoe Gargery(ジョー・ガージェリー)。その名前をブランド名にしたのは、飲み手の人生にいつも変わらず優しく寄り添うようなビールにしたいと思ったからだ。
いつもそこに行けば会える、変わらない親友のようなビール。
それがガージェリー。質問への答えだ。



やるべきことの優先順位ははっきりしている。ガージェリーを愛していただける飲食店を探すことを愚直に続ける。そして共感していただいた人たちガージェリーを語っていただく。それが一番のブランドづくり。

ただ、そうは言っても、お客様やパートナーとの信頼関係をつくることなので時間がかかる。ブランドをつくるには、腰をかがめて我慢する時間が必要。いたずらに量を求めてあれこれ背伸びをすると、ブランドではなく単なる”商品群”ができてしまう。あとは前年比とのいたちごっこ。そうしてダメになった商品を数知れず見てきた。

幸い、今のところガージェリーの状況は悪くない。15年続いた。まだ15年とも言えるが。日本のビールとしては他に類を見ないブランドになってきていると思う。ガージェリーと同じような売れ方をしているビールは、クラフトビール、大手ビール、どこを探しても、無いと思う。



なんて、自慢げに書いてしまったが、実のところバックヤードには大きな課題がある。50代のおっさん二人だけで会社のオペレーションを回している。二人のうち一人に何かあるとたちまち立ち行かなるなるような状態では、そりゃまずい。1,100店の取扱店を二人でカバーしてます!などと自慢げに言っている場合ではない。

そろそろ次の世代に引き継いで行く準備が必要だ。それは、ただ若い人を入れる、という単純なことではない。次の15年も変わらず、飲み手に寄り添うビールでありたい。そのためには変えることは変えないといけない。つまり、変えないために、変わることが必要になってきている。

2018年はそういうことに手をつける初年度だと思っている。

さ、新しいスタートだ!