2016年8月31日水曜日

大阪で生まれた女はまだ歌っていない

1989年にボクはキリンビールに入社。赴任先は大阪支社だった。最初の4年はマーケティング関係の仕事、後半の4年半はスーパーやデパートを担当する営業を経験した。事務所は大阪の淀屋橋で、最後の1年程は土佐堀の新しいビルに通った。住まいはというと今は無くなってしまったキリンビール尼崎工場敷地内の独身寮、次は阪神大物(だいもつ)駅近くのワンルームマンション、そして西宮の社宅へと移り住んだ。つまり、職場は大阪市内、住まいは兵庫県東部という生活を8年半送ったわけ。西宮の社宅に住んでいた1995年に阪神淡路大震災が起こり、忘れられない時間を過ごした。そんな社会人初期、20代ど真ん中の青春を過ごした関西だったけれど、1997年に転勤をしてからはほとんど訪れる機会がなかった。梅田にヨドバシカメラができたのは知っていたけれど、初めて見たのは去年だったと思う。


20年近くが経過して、昨年後半から毎月関西を訪れるようになった。ガージェリーの営業のため、毎月3泊から4泊程度で飲食店まわりをしているのだ。久しぶりの心斎橋に難波、久しぶりの梅田界隈。戎橋近辺が外国人だらけになり、大阪駅の北側にはヨドバシカメラにグランフロント、そこに古巣のキリンビールが入っている。大きく変わったところもあれば、全然変わっていないように思えるところもある。しみじみ眺めて歩きたいのだけど、正直なところ、この1年はガージェリーの営業で一生懸命だった。とにかく歩いて歩いて飲食店を回った。昼は仕込み中のお店に飛び込み営業をかけて、夜は取扱店を中心に飲んで回る。観光の時間は無かった。それでそろそろ1年が過ぎる。大阪の取扱店は1年前は20店程度だったが、今は50店近く。当初はキタ、ミナミ中心に回っていたけれど、最近は行動範囲も広がり、芦屋、三ノ宮まで足を伸ばすようになった。


三ノ宮へ初めて営業に来て、最初に飛び込んだ店から数日後に注文をもらった。後で知ったのだけれど、そのお店は神戸の外食業界では知らない人はいないような有名な肉ビストロだった。バーを何軒かまわった後の遅い時間に、やっと空いたカウンター席に滑り込ませてもらい、ステーキに食らいついていると、地元神戸の女性がリュトンでガージェリーを飲んでくれている。きっと阪神・淡路大震災が起きた時は小学生くらいだっただろうか、20代後半くらいに見える。嬉しいのだけれど、ちょっと不思議な気持ちになる。


20年離れていた関西だけれど、こうやって動き回っていると、飲食店関係を中心に点が線になり、線が面になってくる。ボクはもうキリンビールの一員では無いが、このブランドと会社の人たちと忘れ得ない思い出を共有しており、実際、今でもあの時の人間関係にも助けられ、ここでガージェリーを広めている。ガージェリーはもともとは、ボクにしても社長にしても、キリンビールでの様々な経験を通して培われた想いから生まれ出てきたものだ。感謝しなければいけないのだ。

まだしばらく大阪から神戸にかけてを頻繁に訪れるだろう。一生懸命仕事をしている。時々、こちらの友人と誘い合わせてガージェリーの取扱店へ飲みに行くことはある。ただ、20年前にカラオケでよく歌っていた「大阪で生まれた女」は、まだ歌っていない。