1989年にボクはキリンビールに入社。赴任先は大阪支社だった。最初の4年はマーケティング関係の仕事、後半の4年半はスーパーやデパートを担当する営業を経験した。事務所は大阪の淀屋橋で、最後の1年程は土佐堀の新しいビルに通った。住まいはというと今は無くなってしまったキリンビール尼崎工場敷地内の独身寮、次は阪神大物(だいもつ)駅近くのワンルームマンション、そして西宮の社宅へと移り住んだ。つまり、職場は大阪市内、住まいは兵庫県東部という生活を8年半送ったわけ。西宮の社宅に住んでいた1995年に阪神淡路大震災が起こり、忘れられない時間を過ごした。そんな社会人初期、20代ど真ん中の青春を過ごした関西だったけれど、1997年に転勤をしてからはほとんど訪れる機会がなかった。梅田にヨドバシカメラができたのは知っていたけれど、初めて見たのは去年だったと思う。
20年近くが経過して、昨年後半から毎月関西を訪れるようになった。ガージェリーの営業のため、毎月3泊から4泊程度で飲食店まわりをしているのだ。久しぶりの心斎橋に難波、久しぶりの梅田界隈。戎橋近辺が外国人だらけになり、大阪駅の北側にはヨドバシカメラにグランフロント、そこに古巣のキリンビールが入っている。大きく変わったところもあれば、全然変わっていないように思えるところもある。しみじみ眺めて歩きたいのだけど、正直なところ、この1年はガージェリーの営業で一生懸命だった。とにかく歩いて歩いて飲食店を回った。昼は仕込み中のお店に飛び込み営業をかけて、夜は取扱店を中心に飲んで回る。観光の時間は無かった。それでそろそろ1年が過ぎる。大阪の取扱店は1年前は20店程度だったが、今は50店近く。当初はキタ、ミナミ中心に回っていたけれど、最近は行動範囲も広がり、芦屋、三ノ宮まで足を伸ばすようになった。
三ノ宮へ初めて営業に来て、最初に飛び込んだ店から数日後に注文をもらった。後で知ったのだけれど、そのお店は神戸の外食業界では知らない人はいないような有名な肉ビストロだった。バーを何軒かまわった後の遅い時間に、やっと空いたカウンター席に滑り込ませてもらい、ステーキに食らいついていると、地元神戸の女性がリュトンでガージェリーを飲んでくれている。きっと阪神・淡路大震災が起きた時は小学生くらいだっただろうか、20代後半くらいに見える。嬉しいのだけれど、ちょっと不思議な気持ちになる。
20年離れていた関西だけれど、こうやって動き回っていると、飲食店関係を中心に点が線になり、線が面になってくる。ボクはもうキリンビールの一員では無いが、このブランドと会社の人たちと忘れ得ない思い出を共有しており、実際、今でもあの時の人間関係にも助けられ、ここでガージェリーを広めている。ガージェリーはもともとは、ボクにしても社長にしても、キリンビールでの様々な経験を通して培われた想いから生まれ出てきたものだ。感謝しなければいけないのだ。
まだしばらく大阪から神戸にかけてを頻繁に訪れるだろう。一生懸命仕事をしている。時々、こちらの友人と誘い合わせてガージェリーの取扱店へ飲みに行くことはある。ただ、20年前にカラオケでよく歌っていた「大阪で生まれた女」は、まだ歌っていない。
飲食店専用プレミアムビールを展開する先鋭的ビール会社の経営者が、街を飲み歩き、撮って、語って、時々弾き語る、公私混同ブログ。目指しているのは「外飲みをもっと楽しく、魅力的に!」
2016年8月31日水曜日
2016年7月24日日曜日
芥川賞、三年連続です。
ガージェリーのホームページで年に2回程度のペースで更新しているショートストーリー。作家やエッセイストなど、文章を書くことを生業としている方々に、ガージェリーをイメージして短い文章を書いていただく。2004年の絲山秋子さんから始まり12年、32人の方々に執筆いただいた。少ない予算の中で始めたことなので、もうすでに有名になっているような人ではなく、当時はこれから、という方々に声をかけてきたが、一番最近のストーリーは、初めて芥川賞を受賞した後の作家さんにお願いすることができた。2013年に「穴」で受賞された小山田浩子さんだ。お願いしたのは過去にもお声がけした経緯もあったのだけれど、快くお受けいただき本当に嬉しかった。
そして、つい数日前、このストーリー関連で嬉しいことが、またまた起こった。2014年度上半期で芥川賞を受賞された柴崎友香さん、2015年度下半期で受賞された本谷有希子さんに続いて、2016年度上半期で藤田沙耶香さんが「コンビニ人間」で芥川賞を受賞された。なんと3年連続だ。藤田沙耶香さんには2012年にガージェリーショートストーリーを書いていただいている。「悪いことに乾杯」という女性二人の微笑ましい会話を描いているものだ。
ガージェリーのショートストーリーと芥川賞には何の関連もないが、2004年の一番番最初に書いていただいた絲山秋子さんが2年後の2005年下半期で受賞されたことを考えると、この賞に何かのご縁を感じざるを得ない。GARGERYというブランド名は、英国文豪チャールズ・ディケンズの代表作「大いなる遺産(GREAT EXPECTATIONS)」の登場人物からとっているので、そもそも文学との相性は良いし、この企画は主に新人の方々に声をかけてきているので、直木賞より芥川賞であることは必然と言えば必然なのだが、それにしても3年連続とは「やったね」としか言いようがない。そして、藤田さん、おめでとうございます!
もうすぐ発売される「コンビニ人間」を読むのが楽しみだ。
2016年7月11日月曜日
回想するにはまだ早い - 2016
10年前、livedoor blogでこれと似たようなブログを書いていました。2005年4月から2006年7月まで、1年3ヶ月ほど続けました。「マーケティング戦略部長日記」というタイトルは、まさしくビアスタイル21社での自分の肩書きを使っていましたが、一応、会社名、ブランド名は伏せ字にして、非公式という形で、少しでもガージェリーの宣伝になればと思っていたわけです。その最終回は2006年の7月17日だったので、あれからまさしく10年が経過しようとしています。久々に手元にある記録を読み返してみたら、最後の記事がとてもよく書けていたので、昨年ここで再掲したのですが、やはり10年前のことであり、状況も大きく変わっているので、現状に合わせて書き直しました。
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「回想するにはまだ早い–2016」
ボクらの会社は3人。小さな小さなビール会社だ。
社長兼ビール醸造責任者の佐々木、営業&ブランド伝道師の座間、そしてマーケティング責任者の自分だ。この3人になるまでの紆余曲折は置いておくが、事業を開始した2002年は4名だったので、成長ストーリーどころか社員数は減っている。そんな小さな会社が、よく14年も腰折れせず、粛々と、愚直に、同じ想いを持ってここまでやってきたものだなと思う。
2002年7月25日に株式会社ビアスタイル21は大手ビール会社の社内ベンチャー的な位置づけで設立された。この事業企画を一番最初から手掛けたのが社長の佐々木とボクの2人。ここに2名が加わり、4人でガージェリーというビールを開発し、会社設立に至った。
この事業企画に当たってのボクらの想いはこうだった。
日本のビール業界に疑問を感じている。ビジネスとして“量”ばかりを志向した商品。広告イメージ先行の商品。そして酒税法の隙間をついた価格訴求型の商品がますます広がっている。一方で消費者の嗜好性は着実に高まってきている。ワイン、日本酒、焼酎について一定の知識を持って楽しむ人は明らかに増えているし、モルトウィスキーを語る人もいる。ビールについても地ビール、ベルギービールなどについて小さな流れが始まっているように思える。
既存のビール業界の真ん中にいて感じるこの乖離感は何だろう。
お酒が大好き、ビールが大好きな自分たちが、仕事として、使命を持って、今やるべきことは何だろう?
徹底的に話し合い、4人の想いが収斂した。
既存のビール業界を否定するのではなく、新しいものを創らなければいけないと思った。アンチテーゼだけじゃ人を惹きつけることはできない。ビールが本来持っている可能性を引き出して、さらに他にはない魅力を加えたい。願わくば、飲んでいただいた人たちの生活や人生を演出する名脇役として長く愛されるものを創りたい。一番売れるビールではなくても、一番愛されるビールを創りたい。
それがガージェリーだ。

無駄なコストはかけない。だから事務所も都心から離れた古いペンシルビルの1フロア。大手ビール会社の快適な本社オフィスと異なり、掃除もゴミ出しも全部自分たちでやる。
当初、スタウトを新潟のエチゴビールに製造委託し、その後発売したエステラは静岡県の醸造所に委託した。(現在は、2009年以降に発売した瓶商品も含め、全てエチゴビールに委託。)醸造責任者の佐々木が、ビールのレシピを作り、原材料の手配をし、メールや電話で毎日醸造所とやり取りをしながら醸造管理をしている。
飲食店からいただく注文の数だけ毎日樽詰めをして、その翌日に冷蔵便でお店に届ける。365日無休で「昨日詰めたばかりの樽生ビール」を飲食店に届ける。これがガージェリーの品質の根幹。1日、2日程度なら妥協してもそれほど変わらないのでは、という考えは断ち切った。一歩の妥協は時間とともに積み重なり、想いはいつか形骸化する。この少人数で365日営業を続けているボクらもボクらだが、それに付き合っていただいている醸造所の方々に感謝しなければいけない。
醸造所を持たないボクらにとって唯一の有形資産はビールの樽だ。最近はご無沙汰しているが、自分たちで新しい樽にラベルシールを貼ったりもした。

そして、資産として最も大きいものは有形ではなく無形資産。
それは「ブランド」。つまり“ガージェリー”ブランドだ。この“ガージェリー”ブランドをお客様に認識していただくためには、グラスのデザインは極めて重要。当時、ガージェリーは樽詰ビールだけのブランドだったから、飲食店で形としてお客さんの目に触れるのはグラスだけだ。
だから誰もが一度見たら忘れられない形、しかもブランドとしてメッセージをしっかり持っているデザインにした。台座の穴に入れないと自立しないコーン型のオリジナルグラス「リュトン(角杯)」はガラスメーカーの職人さんを大いに困らせた。それでもなんとかやってしまうのが“職人”だ。
古代の酒器である角杯をイメージしたリュトンはガージェリーの顔。エレガントなシルエットはガージェリーのマーケティング上のターゲットにした30~40代の女性の手によく似合う。

そう、こだわりのビールをビールに詳しい人たちに訴えたかったんじゃない。外食を楽しみ美味しいものを知っていて、普段はワインやカクテルを飲んでいるような彼女たち。彼女たちに「新しいアルコール飲料」としてガージェリーに出逢って欲しかった。
だからボクらは“東京外食マーケット”のど真ん中からスタートした。そして2002年から2007年までの5年間は東京にエリアを絞って展開した。
ガージェリーの品質に対するこだわりを理解いただくことは大前提として、通常の大手ビールに比べると数割価格が高いプレミアムビールに対する受容性を持ち、お客様がそういうものを楽しみたいと思えるシチュエーションを提供する飲食店。
ってなことを考えながら、メンバーと喧々諤々議論しながら、街を歩いた。
最初はネガティブな反応をしていた人が、このキットを準備している最中、リュトンに目を奪われ、これにビールがサーヴされると風向きが変わる。一口飲んだ後には「ディスペンサーを置く場所があるかなぁ。」などと急に具体的な会話になったりして。

最初の数年で取扱店は都内約250店にまでなった。その間にイングリッシュパブチェーンとの素敵な出逢いがあり、同チェーンのオリジナルビールをボクらが提供することになった。それでもまだ売上規模は知れているからコストはかけられない。自分たちでグラスなどの備品をお店へ持って行ったり、生ビールディスペンサーの設置や撤去もできる限り自分たちでやった。

時には空樽が足りなくなりそうになる事態も起こる。先に言ったように、唯一の有形資産の樽をいかに効率良く使うかは経営上の重要なポイント。追加して購入すれば余裕を持って回せるかもしれないが、資金は限られている。だから、当時は自家用車を使って慌てて集めて回ったりもした。ちなみに当社は未だに社用車を持っていない。

こんな感じで、2002年から2007年までは大手ビール会社の子会社として事業展開した。しかし、当時はまだ現在のようなクラフトビールブームが来るなんて思っていなかったから止むを得ないが、この小さなビール事業は、簡単に言えば親会社から「戦力外通告」を受け、大手ビール会社の資本を離れることになった。社長の佐々木は大手ビール会社を退職し当社に残留。ボクともう一人は大手ビール会社に戻ることになった。
それから7年半後、ボクはその大手ビール会社を退職し、ビアスタイル21社に出戻りをした。この経過は、この「ビールの新しいスーリーをつくろう」ブログで断片的にだが書いてきた。大手ビール会社を退職する意思決定と、ビアスタイル21社への再就職は直接的な繋がりはない。別々の判断だ。ただ、今となっては、運命づけられていたものとしか思えない。
なんで、この小さなビール会社に戻ったのか。
若い頃にイメージしていた“ヤングエグゼクティブ”みたいな仕事とはずいん違う(そもそももうヤングではないが)。“取締役”だの“マーケティング責任者”なんて名刺を作ってみても、実際の仕事内容は、受注業務、宅配便の荷造り、POPのパウチ、備品のお届けだ。最近はフェイスブックやらツイッターという、この手の商品にはお誂え向きのメディアができたので、ここぞとばかりに“公式に”活用しているが、やっぱり写真を撮るのも自分、文章書くのも自分ってことで、休みの日にもパソコンに向かっている。
さて、3名だけでやっているようなことを書いたが、想いを込めたビールを美味しく飲んでいただくためには、自分たちだけの力では及ばないところが実は大きい。お店までビールを届けることができても、お客さんの口元までは運べないから。
最後の最後の数メートル数センチはお店の人に託している。
だから、ボクらは街へ出ている。
バーテンダー、ソムリエ、フロアスタッフの方々に会いに行く。
お客様の前で、ガージェリーが花のように咲いていることを願いながら。
これは、事業を開始した14年前も今も少しも変わらない。微動だにしていない。
さあ、今日も街に出る。
ガージェリーに逢いに行く。
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「回想するにはまだ早い–2016」
ボクらの会社は3人。小さな小さなビール会社だ。
社長兼ビール醸造責任者の佐々木、営業&ブランド伝道師の座間、そしてマーケティング責任者の自分だ。この3人になるまでの紆余曲折は置いておくが、事業を開始した2002年は4名だったので、成長ストーリーどころか社員数は減っている。そんな小さな会社が、よく14年も腰折れせず、粛々と、愚直に、同じ想いを持ってここまでやってきたものだなと思う。
2002年7月25日に株式会社ビアスタイル21は大手ビール会社の社内ベンチャー的な位置づけで設立された。この事業企画を一番最初から手掛けたのが社長の佐々木とボクの2人。ここに2名が加わり、4人でガージェリーというビールを開発し、会社設立に至った。
この事業企画に当たってのボクらの想いはこうだった。
日本のビール業界に疑問を感じている。ビジネスとして“量”ばかりを志向した商品。広告イメージ先行の商品。そして酒税法の隙間をついた価格訴求型の商品がますます広がっている。一方で消費者の嗜好性は着実に高まってきている。ワイン、日本酒、焼酎について一定の知識を持って楽しむ人は明らかに増えているし、モルトウィスキーを語る人もいる。ビールについても地ビール、ベルギービールなどについて小さな流れが始まっているように思える。
既存のビール業界の真ん中にいて感じるこの乖離感は何だろう。
お酒が大好き、ビールが大好きな自分たちが、仕事として、使命を持って、今やるべきことは何だろう?
徹底的に話し合い、4人の想いが収斂した。
既存のビール業界を否定するのではなく、新しいものを創らなければいけないと思った。アンチテーゼだけじゃ人を惹きつけることはできない。ビールが本来持っている可能性を引き出して、さらに他にはない魅力を加えたい。願わくば、飲んでいただいた人たちの生活や人生を演出する名脇役として長く愛されるものを創りたい。一番売れるビールではなくても、一番愛されるビールを創りたい。
それがガージェリーだ。
スタートは、ブランドのメッセージを最も力強く伝える商品一本で行くべきと考えた。ガージェリーのフラッグシップ商品として、ガージェリー・スタウトが生まれた。
そして、設立したのは醸造所を持たないビール会社。
本格的に独自のブランド展開を志向した“コントラクトブリュー(契約醸造)”という日本では初めてのビジネスモデルのビール会社。大手ビール会社の醸造設備では、ボクらが造ろうとしているビールの量には大き過ぎたし、また大手ならではの様々なルール、組織体制が、サイズ感が全く異なる事業においては足枷になるだろうと考えられたので、別会社にすることが重要だった。一方で、醸造設備を新たに造って大きな投資をするよりも、既存の地ビール会社をパートナーとして製造を委託することで、大きな設備投資を避け、新規事業としてのリスクを小さくすると同時に、お客様に新しい価値を伝える活動に力を注ぐことができる。
そして、設立したのは醸造所を持たないビール会社。
本格的に独自のブランド展開を志向した“コントラクトブリュー(契約醸造)”という日本では初めてのビジネスモデルのビール会社。大手ビール会社の醸造設備では、ボクらが造ろうとしているビールの量には大き過ぎたし、また大手ならではの様々なルール、組織体制が、サイズ感が全く異なる事業においては足枷になるだろうと考えられたので、別会社にすることが重要だった。一方で、醸造設備を新たに造って大きな投資をするよりも、既存の地ビール会社をパートナーとして製造を委託することで、大きな設備投資を避け、新規事業としてのリスクを小さくすると同時に、お客様に新しい価値を伝える活動に力を注ぐことができる。
無駄なコストはかけない。だから事務所も都心から離れた古いペンシルビルの1フロア。大手ビール会社の快適な本社オフィスと異なり、掃除もゴミ出しも全部自分たちでやる。
当初、スタウトを新潟のエチゴビールに製造委託し、その後発売したエステラは静岡県の醸造所に委託した。(現在は、2009年以降に発売した瓶商品も含め、全てエチゴビールに委託。)醸造責任者の佐々木が、ビールのレシピを作り、原材料の手配をし、メールや電話で毎日醸造所とやり取りをしながら醸造管理をしている。
飲食店からいただく注文の数だけ毎日樽詰めをして、その翌日に冷蔵便でお店に届ける。365日無休で「昨日詰めたばかりの樽生ビール」を飲食店に届ける。これがガージェリーの品質の根幹。1日、2日程度なら妥協してもそれほど変わらないのでは、という考えは断ち切った。一歩の妥協は時間とともに積み重なり、想いはいつか形骸化する。この少人数で365日営業を続けているボクらもボクらだが、それに付き合っていただいている醸造所の方々に感謝しなければいけない。
醸造所を持たないボクらにとって唯一の有形資産はビールの樽だ。最近はご無沙汰しているが、自分たちで新しい樽にラベルシールを貼ったりもした。

そして、資産として最も大きいものは有形ではなく無形資産。
それは「ブランド」。つまり“ガージェリー”ブランドだ。この“ガージェリー”ブランドをお客様に認識していただくためには、グラスのデザインは極めて重要。当時、ガージェリーは樽詰ビールだけのブランドだったから、飲食店で形としてお客さんの目に触れるのはグラスだけだ。
だから誰もが一度見たら忘れられない形、しかもブランドとしてメッセージをしっかり持っているデザインにした。台座の穴に入れないと自立しないコーン型のオリジナルグラス「リュトン(角杯)」はガラスメーカーの職人さんを大いに困らせた。それでもなんとかやってしまうのが“職人”だ。
古代の酒器である角杯をイメージしたリュトンはガージェリーの顔。エレガントなシルエットはガージェリーのマーケティング上のターゲットにした30~40代の女性の手によく似合う。

そう、こだわりのビールをビールに詳しい人たちに訴えたかったんじゃない。外食を楽しみ美味しいものを知っていて、普段はワインやカクテルを飲んでいるような彼女たち。彼女たちに「新しいアルコール飲料」としてガージェリーに出逢って欲しかった。
だからボクらは“東京外食マーケット”のど真ん中からスタートした。そして2002年から2007年までの5年間は東京にエリアを絞って展開した。
ガージェリーの品質に対するこだわりを理解いただくことは大前提として、通常の大手ビールに比べると数割価格が高いプレミアムビールに対する受容性を持ち、お客様がそういうものを楽しみたいと思えるシチュエーションを提供する飲食店。
ってなことを考えながら、メンバーと喧々諤々議論しながら、街を歩いた。
お店の方に最初「新しいビール会社です。」と挨拶すると、たいていは「うちはビールは決まってるから。」とそっけなく言われる。しかもスタウトビールだと知ると「うちは黒ビールは売れないよ。」
でも、とにかく試飲していただく約束を取り付け、重たい試飲キットを持参。
でも、とにかく試飲していただく約束を取り付け、重たい試飲キットを持参。

最初はネガティブな反応をしていた人が、このキットを準備している最中、リュトンに目を奪われ、これにビールがサーヴされると風向きが変わる。一口飲んだ後には「ディスペンサーを置く場所があるかなぁ。」などと急に具体的な会話になったりして。
しかし取り扱いが始まってからの方が難しい。無名のビール、しかも“黒ビール”を注文するお客様はそんなに多くはない。お店の人がリコメンドするか、メニューでかなりアピールしていただかなければビールが回転しない。ビールが古くなって味が落ちたものを出したらガージェリーもお店も評判を落とすだけ。扱っていただかない方が良かったということになる。
だからPOPが重要な役割を果たす。普段はあまりPOPを置かないようなお店でも使用していただけるセンスのあるデザインが肝要。継続して使用していただけるよう季節に応じたデザインで入れ替えもする。カメラマンに格安で撮影をお願いし、デザイン、印刷は自前。毎シーズン、会社のプリンター、パウチ機はフル稼働。瓶商品を発売して取扱い店数が増えた今はさすがに季節毎のデザイン入れ替えはできないが、それでも自分たちで印刷しパウチして一店一店個別にアレンジしたPOPを用意するスタイルは変わっていない。

最初の数年で取扱店は都内約250店にまでなった。その間にイングリッシュパブチェーンとの素敵な出逢いがあり、同チェーンのオリジナルビールをボクらが提供することになった。それでもまだ売上規模は知れているからコストはかけられない。自分たちでグラスなどの備品をお店へ持って行ったり、生ビールディスペンサーの設置や撤去もできる限り自分たちでやった。

時には空樽が足りなくなりそうになる事態も起こる。先に言ったように、唯一の有形資産の樽をいかに効率良く使うかは経営上の重要なポイント。追加して購入すれば余裕を持って回せるかもしれないが、資金は限られている。だから、当時は自家用車を使って慌てて集めて回ったりもした。ちなみに当社は未だに社用車を持っていない。

こんな感じで、2002年から2007年までは大手ビール会社の子会社として事業展開した。しかし、当時はまだ現在のようなクラフトビールブームが来るなんて思っていなかったから止むを得ないが、この小さなビール事業は、簡単に言えば親会社から「戦力外通告」を受け、大手ビール会社の資本を離れることになった。社長の佐々木は大手ビール会社を退職し当社に残留。ボクともう一人は大手ビール会社に戻ることになった。
それから7年半後、ボクはその大手ビール会社を退職し、ビアスタイル21社に出戻りをした。この経過は、この「ビールの新しいスーリーをつくろう」ブログで断片的にだが書いてきた。大手ビール会社を退職する意思決定と、ビアスタイル21社への再就職は直接的な繋がりはない。別々の判断だ。ただ、今となっては、運命づけられていたものとしか思えない。
なんで、この小さなビール会社に戻ったのか。
若い頃にイメージしていた“ヤングエグゼクティブ”みたいな仕事とはずいん違う(そもそももうヤングではないが)。“取締役”だの“マーケティング責任者”なんて名刺を作ってみても、実際の仕事内容は、受注業務、宅配便の荷造り、POPのパウチ、備品のお届けだ。最近はフェイスブックやらツイッターという、この手の商品にはお誂え向きのメディアができたので、ここぞとばかりに“公式に”活用しているが、やっぱり写真を撮るのも自分、文章書くのも自分ってことで、休みの日にもパソコンに向かっている。
日本各地で季節を感じるのが楽しい。

人に巡り逢うのが楽しい。

友人が応援してくれるのが嬉しい。

そして、何より、自分が創り出した“ガージェリー”だから、
まさしく、自分の子供だから。
だから、ここに戻ってきた。
さて、こんなにガージェリーを想っていますと言ってみたが、実際のところ自分はガージェリーを7年半も離れていた。その間、当社は大手ビールの資本を離れたことによる自由もあっただろうが、ビジネス的には困難の方が大きかった。設立当初は4名だった社員数は、2008年から2012年まではたったの2名。2013年に大手小売企業から転職してきた座間が加わってやっと3名体制に戻った。よくぞ佐々木社長はここまで守ってきたと思う。
そして、2016年の“ガージェリー”。
あの頃の樽だけのガージェリーに、瓶の3種類が加わり、東京限定も解除してガージェリーは日本全国に広がりつつある。(3人なのに広げ過ぎ…とも思うが。笑)

人に巡り逢うのが楽しい。

友人が応援してくれるのが嬉しい。

そして、何より、自分が創り出した“ガージェリー”だから、
まさしく、自分の子供だから。
だから、ここに戻ってきた。
さて、こんなにガージェリーを想っていますと言ってみたが、実際のところ自分はガージェリーを7年半も離れていた。その間、当社は大手ビールの資本を離れたことによる自由もあっただろうが、ビジネス的には困難の方が大きかった。設立当初は4名だった社員数は、2008年から2012年まではたったの2名。2013年に大手小売企業から転職してきた座間が加わってやっと3名体制に戻った。よくぞ佐々木社長はここまで守ってきたと思う。
そして、2016年の“ガージェリー”。
あの頃の樽だけのガージェリーに、瓶の3種類が加わり、東京限定も解除してガージェリーは日本全国に広がりつつある。(3人なのに広げ過ぎ…とも思うが。笑)
一方、世の中はクラフトビールブーム。
2002年当初は四苦八苦していた地ビールメーカーの一部は大きく成長、設備投資をして増産体制、海外への展開も積極的だ。新しい会社も中小次々に立ち上がっている。大手ビール会社は新しいクラフトビールの会社を立ち上げ、一方で最大手クラフトビール銘柄の委託製造を受け入れ、その会社に資本を入れる。湧き起こってきたこのムーブメントに乗り遅れまいと力が入る。
実際のところ、ガージェリーはこのムーブメントにはほとんど乗っていない。特別に意図しているわけではないが、最近よく出るクラフトビール特集の雑誌には掲載されないし(なんでだろ?^^;)、各地で開催されるイベントに出店もしない、する余裕もない。確かに様々なビールに対する興味を持つ飲食店や消費者が増えたことで営業はしやすくなった。しかし、ガージェリーのコンセプトは、今の日本における多くのクラフトビールの受け入れられ方とは、かなり違ったところに軸足を置いている。そして、このコンセプトを変えるつもりは全くない。
飲み手の人生に寄り添うブランド、
自分だけの大切な時間を彩る、
こころまで満たすようなビール。
飲食店限定、醸造所からお店に冷蔵直送、
バーテンダー、ソムリエ、飲食のプロがサーヴする、
いつも変わらずそこにあって、長く愛されるビール。
2002年当初は四苦八苦していた地ビールメーカーの一部は大きく成長、設備投資をして増産体制、海外への展開も積極的だ。新しい会社も中小次々に立ち上がっている。大手ビール会社は新しいクラフトビールの会社を立ち上げ、一方で最大手クラフトビール銘柄の委託製造を受け入れ、その会社に資本を入れる。湧き起こってきたこのムーブメントに乗り遅れまいと力が入る。
実際のところ、ガージェリーはこのムーブメントにはほとんど乗っていない。特別に意図しているわけではないが、最近よく出るクラフトビール特集の雑誌には掲載されないし(なんでだろ?^^;)、各地で開催されるイベントに出店もしない、する余裕もない。確かに様々なビールに対する興味を持つ飲食店や消費者が増えたことで営業はしやすくなった。しかし、ガージェリーのコンセプトは、今の日本における多くのクラフトビールの受け入れられ方とは、かなり違ったところに軸足を置いている。そして、このコンセプトを変えるつもりは全くない。
飲み手の人生に寄り添うブランド、
自分だけの大切な時間を彩る、
こころまで満たすようなビール。
飲食店限定、醸造所からお店に冷蔵直送、
バーテンダー、ソムリエ、飲食のプロがサーヴする、
いつも変わらずそこにあって、長く愛されるビール。
さて、3名だけでやっているようなことを書いたが、想いを込めたビールを美味しく飲んでいただくためには、自分たちだけの力では及ばないところが実は大きい。お店までビールを届けることができても、お客さんの口元までは運べないから。
最後の最後の数メートル数センチはお店の人に託している。
だから、ボクらは街へ出ている。
バーテンダー、ソムリエ、フロアスタッフの方々に会いに行く。
お客様の前で、ガージェリーが花のように咲いていることを願いながら。
これは、事業を開始した14年前も今も少しも変わらない。微動だにしていない。
さあ、今日も街に出る。
ガージェリーに逢いに行く。
2016年7月5日火曜日
交差点で起こったこと
交差点の中でタクシーが止まった。商店街沿いの片側1車線道路と車両通行帯の無い住宅地を抜ける道路の小さな交差点だ。そうであっても交差点の中で車は停車してはいけない。信号が変わって走り始めたスクーターの行く手を遮る形になった。直進できず大きく旋回してタクシーを避けなければいけなくなったスクーターを運転するおじさんがべらんめい調で怒鳴った。
「どこに停めてんだ!このやろう!」
その時タクシーから降りてきていたのはかなり高齢のご夫婦で、先に降りた旦那さんが杖を持った奥様の手をとって降りるのを手伝っていた。簡単には降りれず苦労している様子だ。ガードレールや段差のあるところでなく、比較的降りやすい場所として停車位置にそこを選んだのだろうと推測できる。
スクーターのおじさんは「どこに停めてんだ!」と言っている最中はタクシーから降りてきている人が見えていなかっただろう。タクシーの運転手をにらめつけていたはずだ。「このやろう!」の最後のあたりでタクシーの正面を過ぎ視界の端に高齢の夫婦が目に入ったのだろう。こころもち「やろう!」の語尾のトーンが下がったように感じた。
交通ルールからすると100%タクシーが悪い。違反切符を切られても仕方の無い停め方だ。スクーターのおじさんが怒るのも無理はない。ただおじさんは状況が全部見えた瞬間に怒鳴ったことを後悔したのではないか。そう感じた。
腹立たしいことはある。怒るべき時もある。
ただ、怒りを露わにする前に、感情を露わにする前に、ちょっと飲み込んで、一歩引いて、できるだけ優しい気持ちでものごとを見て、それから自分の態度を決めるように、
できるようになればいいなぁ・・・と思いました・・・。
そして、ガージェリーを一杯。
「どこに停めてんだ!このやろう!」
その時タクシーから降りてきていたのはかなり高齢のご夫婦で、先に降りた旦那さんが杖を持った奥様の手をとって降りるのを手伝っていた。簡単には降りれず苦労している様子だ。ガードレールや段差のあるところでなく、比較的降りやすい場所として停車位置にそこを選んだのだろうと推測できる。
スクーターのおじさんは「どこに停めてんだ!」と言っている最中はタクシーから降りてきている人が見えていなかっただろう。タクシーの運転手をにらめつけていたはずだ。「このやろう!」の最後のあたりでタクシーの正面を過ぎ視界の端に高齢の夫婦が目に入ったのだろう。こころもち「やろう!」の語尾のトーンが下がったように感じた。
交通ルールからすると100%タクシーが悪い。違反切符を切られても仕方の無い停め方だ。スクーターのおじさんが怒るのも無理はない。ただおじさんは状況が全部見えた瞬間に怒鳴ったことを後悔したのではないか。そう感じた。
腹立たしいことはある。怒るべき時もある。
ただ、怒りを露わにする前に、感情を露わにする前に、ちょっと飲み込んで、一歩引いて、できるだけ優しい気持ちでものごとを見て、それから自分の態度を決めるように、
できるようになればいいなぁ・・・と思いました・・・。
そして、ガージェリーを一杯。
2016年6月19日日曜日
キタで新しいストーリーが動き始めた
一軒のバーが今晩、最後の営業を迎える。北海道紋別郡遠軽町、サロマ湖はもちろん、知床半島までもう一息というところ。ボクがビアスタイル21社を一時離れる前、ガージェリーの情報発信を兼ねてブログをやっていた時、ブログランキングお酒部門の上位の常連だったことからお互いに知ることになった。以来、mixiやfacebookで交流はあったけれど、なかなかお店へは飲みに行けなかった。
だけど、一昨年やっと念願が叶った。あれが最初で最後になってしまったけれど、行って良かった。
あたたかいお店だった。オーナーの熱くて優しくて懐の深い人柄があらわれた居心地の良い空間で、常連の皆さんに心から愛されていると感じた。
あんなに良いお店が、そして最北端のガージェリーの取扱店でもある当店が、なくなってしまうのは寂しいけれど、それよりも、オーナーの〝boss〟が挑戦する次のストーリーがとても楽しみ。
もしかするとここからが始まりかもしれない。
だけど、一昨年やっと念願が叶った。あれが最初で最後になってしまったけれど、行って良かった。
あたたかいお店だった。オーナーの熱くて優しくて懐の深い人柄があらわれた居心地の良い空間で、常連の皆さんに心から愛されていると感じた。
あんなに良いお店が、そして最北端のガージェリーの取扱店でもある当店が、なくなってしまうのは寂しいけれど、それよりも、オーナーの〝boss〟が挑戦する次のストーリーがとても楽しみ。
もしかするとここからが始まりかもしれない。
2016年6月10日金曜日
ババのチカに見つけたアイ
高田馬場の一角に潜むバーのようなビストロのような店、BABA Picassoという、これまた楽しげな店名。この店は大久保にあるPicasso(1号店)、ピリカラソース(2号店)に次ぐ3号店なのだが、2003年に1号店でガージェリーを取り扱いただいたのが始まりで、これら3店全てでガージェリーが飲めるという、どう感謝して良いのやらということなのだが、ボクはここ高田馬場の店は、恥ずかしながら初めて。
来てみて、なんとも温かく嬉しい気分になったのは、この3店が5年前に実施したイベント、「ガージェリーフォトコンテスト」の入選作品が、いまだに壁に貼ってあること。
これらはよく見なければガージェリー関連のものとはわからないのだけれど、だからこそ、ふと気づいた時には“愛”を感じちゃう。
感謝、感謝の乾杯。そういう顔に見えないのは、お赦しを・・・
Picassoホームページ
来てみて、なんとも温かく嬉しい気分になったのは、この3店が5年前に実施したイベント、「ガージェリーフォトコンテスト」の入選作品が、いまだに壁に貼ってあること。
そして、ガージェリーがここ数年、年に1〜2回作っているガージェリーカードのバックナンバーが額に入れて飾ってあること。
これらはよく見なければガージェリー関連のものとはわからないのだけれど、だからこそ、ふと気づいた時には“愛”を感じちゃう。
もちもちっとした愛をほおばりながら、
感謝、感謝の乾杯。そういう顔に見えないのは、お赦しを・・・
Picassoホームページ
2016年5月22日日曜日
歩くこと、繰り返すこと。
とにかく出張先に行くと歩いている。一日10,000歩は当たり前、20,000歩を超える日も普通にある。街を北から南へ、東から西へ。飲食店が開店準備する時間を狙って飛び込み営業をする場合、お店の業態によって適した時間帯が違う。だから一旦こっちからあっちへ行って、またこっちへ戻ってきたりもする。だいたい午後3時から5時くらいの間がピークで、場合によっては小走りで移動する。そして夜になれば飲みながらの営業回り。
20,000歩の営業活動が終わり、深夜にビジネスホテルに戻る。するとさ、一瞬自分がどこにいるんだかわからなくなる時がある。どこも似た様な造りだし、一日中街を歩いているからホテル自体にほとんど心は置かれていない。昨晩泊まった別のホテルの部屋番号へ行ってしまいそうになったり。
まあ、そんな日々を過ごしています。
こういうことを繰り返していると、1年、2年が経過した時に、いつの間にか大きく前進したことに気づく。そういうことなのです。
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